■ 青時雨
 にわか雨が上がった青空には、虹が出ていた。雨宿りに、と身を寄せていた木から離れ、Jはぐっと大きく伸びをする。両手を突き上げれば、虹を掴むこともできそうな気がした。
 そのぐらい澄んだ空で、そのぐらい大きな虹だったのだ。
「さて、と」
 小さく呟いて気持ちを切り替え、視線を空から地面へと戻す。やるべきことは特にない。片付けるべき細々とした雑事は午前のうちに済ませてあるし、そのほかに、これといって特に予定のない土曜の昼下がり。天気も良いことだしと思い、庭の草むしりをしているところでの思わぬハプニングだった。
 Jには思わぬ災難だったとしても、庭の草花にとって、急ぎ足で走り去った雨は恵みの甘露だったろう。雑草だろうがそうでなかろうが関係ない。いくつもの雫を浮かべてきらきらと光を受けているさまは、生気に満ち溢れた力強さを印象付ける。
「どうしよっかなあ」
 頑張って生きているそれを抜き去ることに多少の罪悪感はあったが、せっかく精魂こめて育てている草花の生育を邪魔されたくはない。草むしりはまだ、目標の三分の一すら終えていなかった。続きをしようか、とも思うが、一気に水気を増してしまったところにしゃがみこめば、泥をたくさん服につけてしまうだろう。汚れてかまわないものを一応身につけてはいるものの、いたずらに泥まみれになるのは避けたいところだ。
 足元から、周囲から、上空の梢から。むっと立ち込めるそれは草いきれのにおい。少しずつ、それでも確かに夏が近づいていることを意識して、Jはゆるりと瞳の色を滲ませながら、のんびり思考を巡らせる。


 鼓膜に響いた呼びかけの声に、Jは視線を上向けた。庭に続く建物の出口の扉が開き、土屋が驚いたように目を丸くしている。
「Jくん? どうしたんだい、そんなところで」
 雨が降ってきたから、てっきり建物の中に戻ってきたと思っていたのに。そうぼんやり続けた土屋は、手の中にあったタバコとライターを白衣のポケットにしまいこむ。どうやら、仕事の合間に一息つきに来たらしい。
「雨宿りをしていたんです」
「濡れなかったかい?」
「大丈夫ですよ。木が傘になってくれました」
 にこりと笑って、Jは足を踏み出した。同じく足を踏み出していた土屋は、それを見てすぐ脇にあったスタンド型の灰皿で立ち止まる。
 足元のぬかるみにはまらないよう慎重に足を運ぶJだったが、吹き抜ける風のいたずらまでは予想しきれていなかったらしい。
「うわっ!?」
 揺れる梢から一気に降り注いできた水滴に驚きの声を上げ、思わずその場に立ち止まってしまった様子に、土屋は笑いをこらえることができなかった。



「大丈夫かい?」
 むっつりとした表情を浮かべて、無造作に肩やら腕やらを振り払いながら、Jは土屋の隣に並び立つ。
「なかなか派手にやられたね」
「迂闊でした」
 はあ、とため息をつきながら腕で目元を拭うのを制し、土屋はズボンのポケットからハンカチを取り出した。
「大丈夫ですよ」
「いいから」
 それを目にしたJは丁寧に断りを入れてきたが、聞く耳を持つ気はない。やや強引に押し切り、土屋は子供の顔に降りかかった水滴を拭う。
 くすぐったそうに身をよじりながらも、Jはおとなしく、されるがままになっていた。少しだけ目を細めて頭を拭かれているさまは、どう見ても幼い子供のようである。ほんのり穏やかな気分と、照れくさいような甘酸っぱさを覚えながらささやかに子供を甘やかして、土屋はくすりと微笑んだ。
「青時雨、というんだよ」
「にわか雨ですか?」
 唐突に発された単語に、Jは小首を傾げて土屋を見上げた。ようやく気が済んだのか、すっかり水気を帯びてしっとり重くなってしまったハンカチをたたみなおしながら、土屋は静かに笑う。
「いや。さっき君が被害にあったやつだよ。雨のあと、木の葉とか枝とか、そういったところから降ってくる水滴のことだ」
「知りませんでした」
 ざわりと大気が震え、折しも風が吹き抜ける。それに揺られてざわざわと歌いながら、庭木がいっせいに水を滴らせる。強い日差しに照らされて宙を舞う水滴は、きらきらと光を乱反射して、庭の草木をいっそう鮮やかに映えさせる。


 しばらく二人で青時雨の降るさまに見入ってから、土屋はぽんと、隣の頭に手を置いた。
「さて。今日は暑いぐらいとはいえ、濡れたままというのはよくないね」
「このぐらい、すぐ乾くと思いますけど」
「そういう油断が風邪の元なんだよ」
 頭に手を乗せられたまま、振り仰いできた瞳は実に大雑把な答えを返してきた。仕事に関しては非常に几帳面な性格を発揮するくせに、妙なところでいい加減というか楽観的というか、Jの発想は時と場合によって両極端の性質をみせる。しみじみとため息をこぼしながら子供を諭し、土屋はシャワーを浴びるようにと提案する。
「ほらほら、気をつけすぎるということはないんだし。ざっとでいいからお湯をかぶって、ちゃんと拭いて、服を着替えてしまいなさい」
「はい」
 わかったね、と、確認と念押しをこめてぽんぽんと頭を軽くたたけば、観念したような声音が返る。きちんと聞き入れてくれるその素直さが嬉しくて、今度は軽く髪をかき混ぜる。細い金糸は先ほどの水滴のせいでしっとりと濡れており、やわらかく土屋の指にまとわりついた。頭を濡れたままにしておくのはよくないから、やはり提案は正しかったのだと、土屋は静かに笑みを深める。
 土屋の手の中からするりと抜け出し、建物に向かって足を踏み出しかけてからJはおもむろに振り返った。
「仕事、どうですか?」
「だいぶ進んだよ。少なくとも、タバコを吸いに来るゆとりがあるくらいにはなったね」
 なんでも新商品発売のためのデータのとりまとめやらで、最近ずっと時間に追われてばたばたしていたのだ。所内の仕事をJも手伝える限りは手伝うのだが、企業機密に直接絡むとなれば、正規の社員という立場にない限り触れないほうがいいだろうと判断して、一歩下がったところで見守っていたのだ。おかげで休日返上で働く土屋やら他の所員やらのため、せめてとばかりにお茶を入れたりするのが最近の日課となっていた。
「いろいろ気を遣ってくれてありがとう。とても助かるよ」
「いえ。大したことはできていませんし」
「でも、我々はみんな、感謝しているよ」
 くわえた煙草に火をつけながら、土屋はにこりと微笑んだ。恐縮した風に首を横に振りながらも、頬と耳とが赤く染まるのだからかわいらしい。
「シャワーを浴びたら、ミーティングルームに来るといい。りんごのタルトをもらったんだ」
 ふと思い出して誘いをかければ、Jは嬉しそうに笑って「じゃあ紅茶を用意しますね」と応えてから、パタパタと建物の中に消えていった。


 煙草の煙を吸い込んで、土屋は深く息を吐き出してついと視線を上げる。
 南から吹く風に青時雨が舞って、空に滲む大きな虹の下に、小さな虹が一瞬だけ光り、そして消えていった。
fin.
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 吹き抜ける風を感じてごらん。
 駆け上る虹を見つめてごらん。
 君が進むは遥か南。そのさまを図南にたとえよう。


 青時雨 --- 木々の枝葉から降り注ぐ水滴のこと。雨上がりに降るそれ。
 図南 --- 遠征を試みること。大事業を企てること。

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