■ 水の廻廊
 生温い風が吹く。わずかに湿り気を帯びた、体を包み込むような風だ。こういう風は、雨を連れてくる。夕暮れの一歩手前で燻る、地面から立ち上るような熱気を奪い去るための、天からの打ち水。
 窓辺に座り込み、やがて降りだした雨を、暗く沈みゆく世界を眺めているJは、ただ息を殺して待つ。薄く白くかかる水の紗幕の向こうに、古い幻影が蘇るのを。
 必ず戻るから、と。
 無責任で根拠のない、希望をいつまでも奪い去らずに残しておくような、あまりに残酷なやさしい響きだけを残り香に、彼は消えた。色も気配も、なにもかもを包んで同化させるやわらかな水の向こうに、呑まれていった。
 思い出すことなどなくなっていたのに、風のにおいをかいだ途端、いいようのない不安に駆られたのだ。この風は、自分から大切な存在を奪い去った風でもあるから。



 呼ぶ声を聞いた気がして、Jは音もなく立ち上がった。ゆるく流れる風は、室内に雨粒を吹き込ませることはないものの、カーテンを不安定に揺らし続ける。水の紗幕と、薄いレースの紗幕。二重の紗幕の向こうにある、薄暗くそして妙に明るい世界は幻想的だ。
 泣き疲れて眠り込んだ体温を隣に感じる真夜中に、よくこうして外を眺めていたことを覚えている。眠ることができずに、かといって起きてなにをするというわけでもなく。真昼の太陽光線と違い、真夜中の月明かりが降るさまは、あの水の紗幕を彷彿とさせた。
 煙る世界。白々と明るい世界。
 紗幕の向こうに消えていったあの人が戻ってくるのなら、きっと紗幕の向こうからだと、根拠もなく信じていたのだ。その瞬間を網膜に焼き付けることで、忌々しい喪失の刹那を相殺したかった。
 雲の向こうには、まだ沈まない太陽がある。垂れ込める灰色からじわじわと染み出す光に、その力強さを思う。そして願うのだ。どうか、この紗幕を消し去らないでくれと。
 あの人は戻ってくる。そう約束したのだ。
 守れない約束はしない人だった。口数が極端に少なくて、表情の変化に乏しい、ともすれば幼心に畏怖を覚えるような、無愛想な人だった。笑顔の記憶はない。叱られた記憶も、涙の記憶もない。記憶はなにもないけれど、知っている。
 数少ない告げられた言葉は、すべてが真実だった。あの人は、決して裏切らない。だから、戻ってくると言ったなら、戻ってくるのだ。戻ってこないのは、戻ってくるためのあの紗幕が、きっと保たれないせいだ。
 引き寄せられるように、Jは窓枠に足をかけ、湿り気を帯びる地面へと飛び降りる。紗幕の中に数歩踏み出せば、やわらかく肌を撫でられる感触がある。冷たいはずの水にぬくもりを感じるような錯覚を覚え、Jは瞳を眇めて天を仰ぐ。


 誰も、真実を教えてなどくれなかった。紗幕に消える背中と、隣で眠る体温と、霧雨に似た月明かりと。混沌と入り乱れるそれらの次にあるのは、大きな扉だ。
 とても大きくて、取っ手にすら手が届かない巨大な扉。それがわずかに開かれて、底の見えない闇が漏れていた。質素な空間に浮かぶ扉と、光に浮かぶ闇への入り口。そして聞こえてきたのは、繰り返される、「かわいそうに」という言葉。
 もう戻ってこないのだと。もうまみえることは叶わないのだと。含めるように言い聞かせては、音節に挟まる憐憫。気づけば隣の体温は損なわれ、手元に許されたあの人の遺した唯一の証が、無残に打ち砕かれようとしていた。
 必死に守ろうとした自分を、間違っていたとは思わない。その後、どこか知らない場所へと連れて行かれてしまう結果にはなったが、あの人ならきっと見つけてくれると信じていた。だから、無口で無表情で、そして不器用だったあの人のくれた大切な宝物を守ることができた自分は正しかったのだ。
 せっかく作ってくれたのに、壊してしまったと知ったら、戻ってきたあの人はきっと悲しむだろう。動きを見せない瞳の奥の光が変化するのを、Jは見抜くのが得意だった。
 瞳の奥の光の色は、月明かりに似ていて、雨の日の空の光に似ている。
 それはイメージに過ぎなくて、正しい記憶である確証はない。ただ、Jは自らの抱くそれに満足していて、きっとそうだろうと思う。だから、その光を思い起こさせるいまのような天気が大好きで、その光の喪失を思い起こさせるいまのような空の色が、大嫌いだった。
 両手をゆるりと天に掲げ、Jは光を探る。天から降る無数の涙を受け入れ、そこに滲む光を受け止める。あの人はきっと、この紗幕に魅せられて、そしてその向こうに行ってしまったのだ。ならば、降り注ぐ光の力に気づくことができれば、あの人の傍にいける気がする。



 薄汚れた幻想が甦る。水の紗幕はスクリーンとなって、風の音はスピーカーとなって。
 必ず戻るから。すぐに戻るから。だから、少しだけ待っていて欲しい、と。
 あの人はそう言った。
 無愛想で無口で不器用で、でも、とてもやさしい人だった。
 その言葉は少なくともそこに偽りはなく、その表情は乏しくともそこに仮面はなく、その仕草は拙くともそこに欺瞞はなかった。
 幼かった自分たちとまっすぐに向き合い、嘘を吐くときには悲しげに瞳を歪めて、わずかに小首を傾げる人だったことを、Jは覚えている。
 あまりに幼かった日の記憶は色褪せ、音もほとんど損なわれてしまった。断片的に残る記憶を、Jは正しい記録だとは思わない。脚色され、誇大化され、そして都合のいいように修正の入った偽りの記録。それでも、あの人の在り様に対するイメージはせめて、間違っていないと思うのだ。
 薄っすらと煙る向こうには、Jが育てている草花の植わった花壇がある。それらを囲むのは庭木で、首を上向けないと梢が見えない。その木々が風にざわめいて、世界は色を変える。


 正面から吹いてきた温度の違う風に、Jは腕を下ろして視線をそちらへと向けた。
 消えていく、遠ざかっていく広い背中。滲む髪の色は、あたたかくやわらかい鳶色。
 ありえない光景に、Jは冷ややかな声を胸の内に聞く。これは、夢想に過ぎない。雰囲気に流され、浸っていた思い出が目の前に展開されているように錯覚しているに過ぎない。
 わかっているのに、知っているのに。
 それでもJは、喉が鳴るのを堪え切れなかった。
「――行かないで」
 呻くような掠れた声が唇を割り、鼓膜の上で幻聴に重なっていく。
「行かないで。どこにも行かないで。おいていかないで」
 必死に目を凝らして、喉に絡む声を絞り出す。
 拒絶されることが怖くて、自分よりも水の紗幕の向こうにあるものを優先されるのが怖くて、それを知るのが怖くて。告げることのできなかった願いを、現すことのできなかった思いを、幻に向かって言い募る。
 幻想が揺らぐのは、霧雨に見る白昼夢が覚めようとしているせいだ。目尻が濡れているように感じるのは、雨粒が顔に降りかかっているせいだ。
 瞬きひとつの間に、世界はすべてを元の姿へと戻す。
 目の前に広がっているのは手入れの行き届いた庭木と花壇であり、耳朶を打つのは風の音と、道路を時おり行き交う車のエンジン音。記憶に鮮明にとどめることが叶わないくせに、決して消え去ることのない残り香の中に迷い込んで、目を開けたまま白昼夢を見ていたのだと、正しく現実を認識することで、幻想の再生は終わる。


 すっかり濡れてしまった肌に降りかかる水滴が、いっそう弱々しさを増している。風が吹き抜け、雲が走るのが視界の隅に映った。光は冷たい白色から、より温かみのあるごく淡いクリーム色へ。
 歪む視界に眉をしかめ、Jはゆらりと、上体を背後へ傾けた。小さな振動と共に壁の硬さが皮膚を打ち、体重をかけながら、ずるずるとその場に座り込む。
 叶わない約束を遺すぐらいなら、いっそ突き放してくれればよかった。
 そう思いもするが、言葉にはできない。
 頭を両手で抱え込み、Jは実際の光景の記録としてではなく、己の言葉として胸に刻まれた、古い記憶を呼び覚ます。
 あの人は言っていた。音にするなら、言葉にするなら、そのすべてに責任を持てと。守れない約束はするべきでなく、実行できない決意は言葉にするべきではない。だから、本心を裏切る思いは音にできない。告げられた言葉を、疑うことができない。
「帰ってきて」
 思わず漏らしていた言葉に応えるように響く鳥の声に、Jは肩を震わせ、顔を上げることを躊躇った。それは紗幕が通り過ぎてしまったことを告げる声。



 無責任で根拠のない、希望をいつまでも奪い去らずに残しておくような、あまりに残酷なやさしい響きだけ。それだけを残り香に、あの人は霧雨の向こうに消えた。それだけをきっかけに、あの生ぬるい風に、すべては少しずつ奪われていった。
 雨上がりの、生き物の気配がやけに濃密な庭の片隅に座り込み、Jは古い幻影の消えた方角をぼんやりと眺めやる。しばしの時間をおくだけで、夢と現の狭間で翻弄されていた己の意識が元に戻り、いつもの自分を取り戻せることを知っている。
 徐々に夕闇に染まる世界を眺めているJは、だから、ただ息を殺して待つ。いま自分の隣にいてくれる人を、この思いに触れさせることで心配させたくないから。その人にすら、この思いには触れさせたくないから。
 誰にも見せたくない思いがひっそりと眠り、誰にも汚されたくない幻想に鍵がかかるのを、Jは待つ。
 そしてJは次の風を待ちつづける。吹き去ってしまった、雨を運ぶあの風のにおいだけが、幻影を甦らせ、白昼夢に縋りつく時間を運んでくれるから。
fin.
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 逃れることは出来ず、逃れる気にもなれず。
 縋ることすらできず、縋ろうとすればすり抜け。
 ただ眺めやり、そして思いを馳せ、すべては幻想へと還っていく。

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