■ 花嵐を想う午後
 やがて来たる日というものは、望むものより望まざるものの方が早足にやってくる。てきぱきと運びだされていく決して数の多くないダンボールに、土屋はそっと眉をしかめた。
 物がほとんどなく、生活感に乏しかった部屋は、じわじわと、過ぎるほどゆっくり時間をかけ、少しずつ色を得ていった。はじめて持ち込まれ、居場所を獲得した記念すべき品は、いまは空になってしまった棚の隅にひっそりと息づいている。
「博士」
 背中からやわらに声をかけられ、土屋はゆるりと振り向いた。やけに広く感じられる部屋に、気づけば立ち入って物思いに耽っていたらしい。部屋の入り口に、部屋の主であった青年が立っていた。
 ふと、土屋は頭をよぎった独り言にひっかかりを覚え、目を瞬かせた。考えていた内容に呼応して自然と目の前にいる相手を見つめる形になり、ひたすらに注がれる視線に、Jは小首を傾げて応じる。
「博士?」
「ああ、そうか」
 訝しむようにそっと掛けられた言葉は予想通り。では、違ったものは何か。答えはするりと鼓膜に響き、土屋は静かに目を細める。
「声変わり、したんだね」
 一人で納得した内容を告げれば、土屋とは対照的に、Jはきょとんと目を見開いた。


「声変わりなんて、そんな。もうとっくにですよ?」
「いや、そうなんだけどね」
 子供だ子供だと思っていたら、背はいつの間にか土屋を追い越して、声は気づけば低くなっていて。そして気づけば、子供という形容には当てはまらない年齢になってしまった。心に染みた感慨を吐息に込めると、Jは曖昧な笑みを向けてきた。
「元は漢詩でしたっけ。作者は忘れちゃいました」
 そのまま会話を続ける意思表示か、Jは土屋と向かい合う位置で入り口脇の壁に寄り掛かった。目線の先にある部屋の窓から外を見やり、「季節じゃありませんけど」と呟く。
「何かの言い回しかい?」
「この杯を受けてくれ――、と始まるやつです。ご存知ですか?」
「古典はさっぱりだからなあ」
 含められた意味を汲むには、土屋には背景となる知識が不足していた。苦笑を交えて素直に降参を伝えれば、Jは笑いながら自分は習ったばかりだからとさり気なくフォローをよこす。
 つと奏でられる音律を、瞬きながら土屋は黙って聴いた。前半には聞き覚えがなかったが、あまりにも有名な後半のフレーズには思い当たる節があって、土屋は静かに納得する。
「さよならだけ、とは、思いたくありませんけどね」
 詩歌を詠んだ声には、切ない笑みと言葉とが付随してきた。
 思いたくないのではなくて、思わない。それが土屋のスタンスであり、埋めることの叶わなかったJとの価値観の差異を突きつける現実だ。
 無理に埋めることはないと考えていたし、相手の持つものを尊重してもいた。それでも、諦観をどこかにいつも潜ませるようなJの立ち居振る舞いに触れるたび、土屋は哀しいと思う気持ちを抑えることができずにいる。手元から旅立っていこうとする養い子を少し遠く感じた、こんな時にでさえ。


 旅立ちは、別れではなく出会いを意味するものであって欲しかった。土屋はそう考えていたし、Jにとってもそうなると思っていた。
 湿っぽい空気は好きではなかった。だから、一番の笑顔で送り出そうと思っていた。背中を押して、彼が前を向いて力強く歩めるような、そんな笑顔で。なのに、浮かぶのはくしゃくしゃの、今にも泣き出してしまいそうな中途半端な表情だ。
 ただでさえ、あまりに予想外の速さでやってきたこの日に惑っていた。もうしばらくは続くと思っていた心地好い空間が去っていくのは、何にも代えがたく惜しかった。月が陰るよりも花が散るよりも、この上なく悲しかった。そこに、あんなに切ない詩を添えられてしまってはなおのこと。
 もう教えることは何も残っていないと思っていたが、最後の最後に、大切なことを見落とすところだった。別離の言葉になるかもしれないことを覚悟しながら、土屋は息を吸い込む。
「Jくん」
「はい」
 真剣な声音に、驚きを隠しもせずただ立ち尽くしていたJは、すっと姿勢を正した。土屋よりも高いところから送られる視線の強さと透明さは、変化の中にある不変性を確信させてくれる。
「君はこれから、とても広い世界を知るだろう」
 狭い世界を厭うて、自ら踏み出したその足をJが止めることはないだろう。たとえ壁にぶつかっても乗り越えていける強さを持っていることは、本人以上に土屋が知っている。
「そこでじっくりいろいろなことを見聞きして、いろいろな人に出会って、別れて。そのたびに考えてごらん。さよならだけが人生だ、と詠ったその人の、言葉にこめた意味をね」
 出会えば必ず別れるという、人生の無常を嘆いたのかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。
 受け取り方は人それぞれで、決まった答えなどないだろう。それでも、土屋はJに感じ方を改めて欲しかった。そうじゃないと、この旅立ちの先に、二度と邂逅が巡ってこない気がしたのだ。


 しばらく、言葉を反芻するだけの間をおいてから、Jは小さくあごを引いた。
「頑張ります」
「私はいつでも、君を応援しているよ」
 神妙に告げられたのは、おそらくJからの最大の譲歩だった。それが悟れないほどJの心の動きに疎くはないから、土屋はほっと息をつく。悲しみを前提としない出会いを重ねれば、きっと聡明な彼のことだ。次に会うときにはぐんと成長していて、たくさん土屋を驚かせてくれるに違いない。
「お願いがあるんです」
「なんだい?」
 はじめから、あからさまな子ども扱いはあまりしてこなかったつもりだが、もうそろそろ全面的に対等な立場で接するべきだろうか。先ほどから頭の中でJを思うたびに「この子」という形容がよぎり、それが不思議な気分だった。手元から巣立つほどに大人になってくれた、大人になってしまった相手に、愛しさと一抹の切なさが募る。
「預けてもいいですか?」
 がらんと広がる部屋の隅でJが抱えてあげたのは、小さな鉢植えだった。大事に大事に育て続けたそれは、ずっと昔、星馬兄弟から贈られた小さなサボテン。部屋があまりに殺風景だろうと気遣われ、それをきっかけにして、Jの趣味が開花していった。
「大切な宝物だから、博士にお願いしたいんです」
「預からせてもらうよ」
 そっと託されたかすかな重みを両手に包み込み、土屋は笑った。先の心配はきっと杞憂だろうと、そう思える瞬間が心地好く、そして思った以上にあらゆる意味で大人びた青年が目映かった。


 残したものがないかを確認に来ただけだったJは、部屋をぐるりと見回して、とても丁寧に扉を閉めた。思わぬところで話し込んでしまったから、お茶をするだけの時間があるだろうとの予定は、未定のまま空振りに終わる。
 リビングに置いてあった手荷物をとり、Jは壁一面を占める大きな窓から庭を見やった。
「今年は一緒にお花見できませんけど」
「残念だよ」
 毎年、研究所のメンバーや旧友たちと集まっては花見をして、そして二人で、散るまで毎晩のように花を愛でるのが慣例だった。時間を共有するようになって以来、はじめてのひとりの春が来る。
「来年は、きっと戻ってきます」
 今は寂しく枝を寒風に曝す桜の木を見やりながら静かに呟いて、Jは荷物を抱えなおした。もう、出立の時間だ。
「体に気をつけてくださいね」
「それは私のセリフだよ。無茶をするなと言うだけ無駄だということはわかっているけど、し過ぎないようにね」
 玄関まで見送ってもらい、扉の前でいつもの出かけるときとは少し色合いの違う言葉を交わす。互いの性格を知り尽くしていればこその文言に苦笑を送りあって、Jはドアノブに手をかけた。
「いってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
 いつものように見送って欲しいと、あらかじめ所望したのはJだった。だから、最後はいつもの言葉で締めくくる。すたすたと歩んでいった背中が門の所で一旦振り返り、小さく会釈を残して消えていった。
 花嵐を共に見る約束を残した彼を追いかけるように、花弁のような風花が、空からひらりと降ってきた。
fin.
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 別離の瞬間はいつでも絶対。
 ならばきっと、出会いの瞬間もいつでも絶対であって欲しいと。
 送る彼の手向けた思いが正しく伝わるのは、きっと帰ってきたその日に。

timetable

歓酒

勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離


この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ