いつになくすっきりとした目覚めに、Jはぱちぱちと、大げさなくらいに目を瞬かせた。寝起きは悪い方ではないが、いつも以上にすっきりと、なんだか清々しい気分で目覚めれば気持ちがいい。幸せな夢を見ていたし、それが無理に打ち破られたわけでないのが心地良い。
 あたたかな気分に満たされて、ベッドに上体を起こしてぐっと大きく伸びをする。窓から差し込む光はまだ弱いけれど、空気がすっきりと透き通っている。きっと、今日もいい天気になるだろう。
前奏曲とフーガ

 パジャマを脱いで、きちんと畳んで、制服のズボンとシャツを身につける。通学する際には更に、ネクタイとベストとブレザー、それにコートを纏うのだが、朝食前はシャツの上に軽くカーディガンを羽織るだけにしている。
 シャツのボタンを留めながら机の正面の壁に取り付けた時間割を見て、鞄の中身を確認。ついでに手帳を見て特に持ち物がないか、提出するものがないかを確認して、Jは通学用とは別のコートに手を伸ばす。朝の日課である、庭の水遣りに行くのだ。


 外の空気はきんと刺すように鋭くて、吸い込めば肺腑を刺激した。吐き出す息に視界を遮られて瞬きをふたつ。あっという間にかじかんで赤くなりだした指先に吹きかけて、じわじわと広がるくすぐったいような感触に少しだけ笑う。
 庭の隅、駐車場との境目にある水場には、新しくじょうろの居場所ができた。いちいち物置まで取りに行くのは面倒くさいだろう、とあらゆる面々から指摘され、いつの間にか定位置がずれたのだ。
 たっぷり水を入れた大型のじょうろは、案外重い。両手で支えて、ちょっとだけよろよろしながら目的の花壇に辿り着く頃には、点々と水の染みで道ができている。それを見てはもっと力が欲しいな、と思い、同時に制服のズボンを濡らしていないかが心配になる。いつものごとく、じょうろをいったん足元に置き、ざっと見下ろして問題がないことを確認し、ほっと一息。そしてやはりいつものごとく、学習能力がないな、と、しみじみ次回への善後策を思うのだ。


 花壇で水を撒き終わって建物内に戻ると、大概何かしらの匂いがJの鼻腔をくすぐる。味噌汁の匂いだったり、ベーコンを焼く匂いだったり、それは日によって違うけれど、今朝はどうやら和食のようだ。きっと、おかずは鮭に違いない。魚の油の焦げる独特の匂いにくんと鼻を鳴らし、Jはリビングへと足を向ける。
 ワイシャツと、スーツのズボンと、ネクタイとエプロン。いい加減見慣れてもいいだろうに、いまだ新鮮さを禁じえない後ろ姿に少しだけ微笑んで、Jは息を吸い込んだ。リビングを横切って、キッチンの入り口まで辿り着いて、気づいて振り向いてくれたやさしい横顔にひと言。
「おはようございます」
「おはよう、Jくん」
 濡らしたしゃもじを片手に上体を捻って、土屋ははにかむように笑い返した。
「もうできるよ。テーブルを拭いてもらえるかな」
「はい」
 調理を手伝いたいのは山々だし、レシピを見ながらなら、それなりに作れるとも思う。それでも、土屋はキッチンの占有権を譲ろうとしなかった。刃物や火を使わせるのが心配だから、とも言っていたし、このぐらいはやらせてくれないか、とも言っていた。その心がどこにあるのか、Jはいまだに把握できていないが、誰かが自分のために作ってくれた料理がどれほどおいしいかは、理解できるようになった。だから、今はそれで十分だと思うことにしている。
 もはや馴染んだやりとりは予測できていたので、返事をする頃には布巾の入っている戸棚に手をかけていた。取り出して、水道でゆすいで、絞ってから食卓へ。几帳面にテーブルを拭いていると、背中からもわっと、白米の炊けた匂いが漂ってくる。魚の匂いとあいまったそれは、空腹中枢を程よく刺激する。くう、と控えめに鳴った腹部に思わず苦笑して、Jは布巾を片手にキッチンを振り返った。
 視線の先では、茶碗に白米を盛り付けて、土屋が横目にちらりと笑う。気恥ずかしさがくすぐったくて、Jは眉尻を下げて、肩をすくめながらはにかんだ。



 二人で食卓に食器を運んで、向かい合わせに声をそろえる。行儀正しく両手を合わせて軽く目礼して、Jはそそと箸に手を伸ばした。
 食卓での二人の会話は多くない。口の中に物を入れたまましゃべることには抵抗を持つし、そこまでして慌てて語らなくてはならないようなこともない。だから、毎朝二人が交わす会話は、同じような経路を辿って、同じように終結していく。
「昨日はよく眠れたかい?」
「はい。今朝は特に目覚めが良くて」
「それは良かったね。天気も良いし、いい日になるといいね」
「そうですね」
 租借の合間に箸を止めて、顔を上げて笑いあう。穏やかな時間を他愛なく過ごせるようになったことは、何にも代えがたい喜びだ。この短期間で、これだけ警戒心の強い子供がよくぞここまで、と、土屋は言葉に出さない思いを毎朝噛み締める。今朝もまた、ようやく窓から室内に手を伸ばしはじめた日差しのような子供の笑みにその思いを新たにして、そしてぐずぐずと煮え切らなかった内心を叱咤する。


 ごちそうさまでした、と。Jが箸を置くのは、土屋より少し遅い。土屋よりも少ない量しか食べないくせに、ペースにだいぶ差があるということを知ったのは秋から冬への境目の頃。少しずつ肩の力を抜いてくれるに従って、土屋や周囲の面々に合わせていたのだろうあらゆるもののペースを、ゆっくりと自分のものへ変えていったようだから。
 いつもなら、Jが両手を合わせて食後の挨拶を紡ぎ終わると、二人は席を立って食器を片付ける。しかし、今朝は腰を浮かせたJのことを、座ったままの土屋が呼び止めることでいつもと流れを変えた。
「あー、えっと、Jくん」
「はい」
 呼ばれて、Jは瞬きをひとつしてから改めて椅子に座り直した。蒼い瞳に疑問符と好奇心を溶かし合わせたような色を浮かべて、じっと目の前の土屋を仰ぎ見ている。
「その、本当は昨日言いたかったんだけど、言えなかっただろう? だから、いまさらではあるんだけど、でも、どうしても言いたくてね」
「何をですか?」
 こほん、と、ひとつ咳払いをして、両目を閉じて深呼吸をして。土屋は予想もつかないとばかりに小首を傾げている目の前の子供を見つめて、厳かに口を開いた。
「お誕生日おめでとう」
 子供は、もともと見開かれていた瞳を更に見開いて、きょとんとした様子で土屋を見返していた。


「プレゼントもね、用意したんだよ。でも、君がどういうものを欲しがるのかわからないし、気に入ってもらえるか、わからないんだけどね」
 返答を得られないことに焦りの色を濃くしながら、土屋は早口にまくし立て、「ちょっと待っていてくれ」と言い残して慌しく廊下へと消えてしまった。そのままドアを開ける音がして、バタバタ足音がして、どこかを何かにぶつけたのか「痛っ!」という悲鳴まで聞こえる。そこでようやく我に返り、Jは綻んでしまう口元を覆って、どうにか真面目な顔つきを保とうと眉根を寄せる。
 なるほど、寝覚めがいいわけだ。きっと、昨夜見ていた幸せな夢は、現実だったのだろう。虚ろな感覚の中で聞き取った音と同じ音を、たったいま耳にしたのだから。
 湧きあがる感情を、どう定義すればいいのか分からなかった。嬉しいはずなのに泣きたくなって、幸せなはずなのに切なくなる。ただわかるのは、縋るのにも似た、願い、祈る気持ち。この幸せな夢と寝覚めが、どうか繰り返していくことを。
 取って返してくる足音を聞きながら、Jはどうにもならない表情を取り繕うことを、放棄した。
Fin.


そして、やがて、もう一歩。
少しずつ少しずつ、ふたりの音が重なっていく。
重なり合って、響きあって、やさしいコーラスが繰り返される。

フーガ --- 楽曲の種類のひとつ。同じ旋律が複数の声部(パート)に繰り返して表れる。
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