手をつなごう
夕暮れ時の空は三層に分かれていてとても綺麗だと、ジョーはいつも思う。藍と青と橙。どういう仕組みになっているのかはよく知らない。それでも、境界線が滲むことなく、なぜかきっぱり分かれているのが印象的だ。
藍と青と橙。ちらちらと瞬く星は赤。きっとあれは火星だ。
「つき合わせて悪かったな」
「いいのよ、別に」
空を見上げながら歩いていたから、響いた声はどこか遠く感じられた。視線を下ろし、目の前の背中に向かって軽やかに返す。
「私の買い物にも付き合ってもらったもの」
「そうか?」
「そうよ」
身長差はそうないはずなのに、歩く速度が違うのか、歩幅が違うのか。いつの間にか開いてしまった距離を小走りに追いかけて、ジョーは笑う。偶然なのか、それとも仕組まれた結果なのか。いずれにせよ、舞い込んだチャンスであることには違いない。ありがたく利用させてもらって、今日の気分は上々といったところだ。
ゆらりゆらりと影が揺れる。長く伸びた影法師を踏まないように気をつけて、ジョーは背中を追いかける。
「いいの見つかって、よかったね」
「そうだな。お前のおかげだ」
ありがとう。そう、さりげなくもやさしく深く、静かな微笑を湛えた翠の瞳が流される。半歩分の右斜めうしろ。夕日と一緒に差し込む表情は、逆光になってしまってよく見えない。もったいない気持ちと眩しさとで、ジョーは軽く眉をしかめる。もっとしっかり見たいのに。
雑踏の中でも、彼の姿は紛れない。多種多様の人種が入り混じる街とはいえ、長い黒髪を無造作に束ねた姿はひときわ目立つ。無愛想に見える不器用な表情も好きだし、その声を聞いているのも好き。でも、こうして背中を見つめながら追いかけているのも好きだ。
何かに急き立てられて、追い抜くために睨み据える背中ではなくて、ただ単に追いかける背中。同い年のはずなのに、どうしても差が出てしまう体格。いつもなら悔しくて仕方ないその事実さえ好ましいと思える要素なのだから、自分は本当にどうかしてしまったのだろうとジョーは小さく溜め息をこぼす。
右手に持った紙袋が音を立てる。別にとりたてて欲しかったわけでもない小さなネックレス。アクセサリーの類になど興味もないはずだったのに、どうしてこんなものを買いたがったのか。こんなものが似合うと言われて、それで喜ぶような可愛げは、もう残っていないと思っていたのに。
全部、目の前を歩く男のせいだ。
あまり見つめすぎていても、気配に敏いリョウはすぐに気づいて振り向いてしまう。なんでもないと言って誤魔化せるのにも限度があるだろうから、ジョーはさりげなく視線を外す。さりげなく中心から外して、視界の隅でいつも追いかける。そんな子供じみた行為を繰り返す自分が、いつもならば嫌いになるはずなのに、嫌いになれそうもない。
「どうかしてるわ」
「何がだ?」
独り言になるはずだった小声には、すぐさま返される疑問符があった。驚いてうつむいていた目線を上げれば、人の壁。その更に向こうに、行き交う車と赤色を呈する歩行者用の信号が見える。
声がしたのに、見失うはずなどなかったのに。ほんの少し意識を逸らしただけで、見つめ続けていた背中が見えなくなる。
慌てて音源を探るように首を巡らせれば、背後から軽く肩を引かれた。
「きゃっ!?」
いつの間に追い抜いていたのか。反射的に小さく悲鳴を上げ、体ごと振り向けば、目を見開いて右手を宙に浮かせている探し人の姿。
「……驚かせたか?」
「あ、えっと」
周囲から、なにごとかといぶかしむ視線がいくつも投げかけられる。男に肩を掴まれて悲鳴を上げた女、という構図が出来上がってしまえば、年齢を問わず、非難は男に向かう。事をこじれさせないためにも、ジョーは空回りする言語中枢から急いで言葉を拾い出す。
「ごめんなさい、ちょっとぼんやりしていたの」
「そうか?
ならいいんだが」
ゆっくりと下ろされた手を、少しだけ残念に思う。スキンシップの習慣がない国民性のためか、それとも本人の観念の問題か。おそらくは両方が原因だろうと周囲からは指摘されるのだが、とにかく、リョウからジョーへの積極的な接触はほぼ皆無である。必要性があれば触れてくるが、なければ掠めもしない。プライベートな場面でリョウを目の前にすると、とたんに制御を失う心臓を持て余しているジョーからの接触など、ありえない。貴重な機会をふいにしてしまったことに、しょんぼりとうなだれる。
リョウからすれば脈絡のまるで読めない反応に、おそらくは戸惑っているのだろう。疑問をひしひしと伝える視線が突き刺さっていたが、ジョーは素知らぬ振りで進行方向へと向き直った。
車両用の信号が黄色から赤へと変わる。人波が少しだけざわめいて、歩行者用の信号が青へ。
「行きましょう」
動き出した周囲に合わせて足を踏み出せば、背後の気配も付き従う。ずいずいと距離を詰めて、あっという間に隣に並んで、そして左手を包むごつごつとあたたかい感触。驚いて身をすくめながら見上げた隣の男は、前を見据えてむっつりとした表情を浮かべている。
「――悪かったな」
「え?」
止まってしまいそうになるジョーを促すように、握られた手に力がこめられた。慌てて足を運ぶその耳に、届くのは実に決まり悪そうな声。
「歩幅も歩く速度も違うから、ちゃんと気をつけるように、と釘を刺されていたんだが、忘れていた」
言葉通り、先ほどよりも格段に落とされたペースのおかげで、小走りになる必要はなくなった。追いかけなくても隣にある背中は、見えないけれども心地よい。
視線を向けてこないのは、きっと照れているからだ。目元と耳の縁がほんのりと赤く染まっているのを見て、ジョーは肩から力が抜けるのを感じる。緊張していたのは、何も自分だけではないのだと。
「気づかなくて悪かった。本当に、どうかしている」
「ううん、そんなことない」
最後に付け加えられたひと言から、どうやら相手が先の自分の言葉を勘違いして捉えているらしいことに気づかされ、ジョーも手に力を入れた。一から十まできちんと説明するわけにもいかないが、非難していたわけではないのだと、きちんと伝えたい。
とくとくと刻まれる自分と相手の脈動を感じながら、ジョーは繋いだ相手の腕に、ほんの少しだけ身を寄せる。手のひらから伝う体温と、腕から感じる体温と。距離を詰めたことを拒絶されるどころか、確かめるように握り返された手のひらに、ジョーはうつむいて小さくはにかむ。
「嬉しいから、いいの」
声が上ずらないように気をつけながらきっぱり言い切ると、隣から少しだけ視線が流されて、小さな笑い声が吐息に載せられたのが感じられた。
fin.