祭りの宵 --- 遠雷 / ノスタルジア / 宵月夜
遠雷

 じっとりと肌にまとわりつくような熱気と湿気を、潮の香りをほのかに含んだ風が運び、そして連れ去っていく。
 中庭に面した縁側へ続く障子を開け、土屋は左手奥に目当ての人物を発見して小さく息をついた。気配に敏い彼は、普段ならごくごく小さな物音にも過敏に反応しがちだというのに、いまはただ、のんびり庭を眺めて縁側の柱に身をゆだねている。
 片手で器用に障子の隙間を広げると、土屋は一歩、足を踏み出した。古い造りの家だ。きしりと音を立てて床がしなり、それに気づいたのか彼はゆるりと首をめぐらせた。
「博士」
「ああ、失敗したな」
 気づいていなかったみたいだから、脅かそうと思ったのに。
 ぽつりと落とされた呼びかけに対し、軽い口調で少しいたずらっぽい表情を浮かべてみせると、彼ははにかむような笑顔を返してくれた。
 立ち上がろうとするのを片手で制し、すぐ隣まで進んで腰を下ろす。
「喉は渇いていないかい?」
「ありがとうございます。いただきます」
 汗をかいたグラスの載っているお盆を示すと、彼は少しだけ笑んで素直にそれを受け取った。残ったグラスを口元に運び、並んで冷えた麦茶を喉に流し込む。
「悪かったね、Jくん。急にこんなことになって。疲れさせちゃっていないかな?」
 二人して一息ついたところで、土屋はようやく本題を切り出した。軽く視線を下に向けると、グラスを両手で包み込んだ少年が振り仰いでくる。
「そんなこと、ないです。ボクのほうこそ、本当にご迷惑じゃありませんか? その……」
「とんでもない。あの反応を見て、どうやったら迷惑だなんていえるんだい?むしろ、とても助かってるよ」
 Jの言いさした言葉を遮り、土屋はにっこりと笑いかけてみせる。何かを思案しているらしい表情を浮かべていたJは、その笑みを見て、詰めていた息を少しだけ吐き出す。
「ですが、ボクはまったくの部外者です」
 残りの呼気に乗せた声が、苦味を帯びるのは禁じえなかった。
 無表情を装いたかったのに。
 内心眉をしかめながらも、Jの表情は動かない。整った顔立ちの中で、表情の読めない大きな瞳がじっと土屋を見つめている。
「歓迎されたということは、そうじゃないっていうことだよ」
「そうでしょうか?」
 あくまで疑問符を伴って小さく返される言葉は、猜疑心ゆえというよりも自己に対する評価の低さゆえなのだろう。ふいと逸らされてしまった視線に、土屋はどんな言葉を選べばわかってもらえるかと、ここ一ヶ月ほどですっかり馴染みになってしまった思案に暮れる。


 Jとの出会い方は、最悪の形だったといってもいいだろう。それでも、彼が大神と決別したあのレースをきっかけに一緒に時間を過ごすようになって、少しずつではあるものの相手の考えていることを理解できるようになってきたと思っている。表情の変化が乏しいのも、口数が少ないのも、決してこちらが嫌いだからというわけではない。彼は彼で、必死にあがいてもがいて、戸惑っているのだ。
 無表情ではいけないと察したのか、笑顔を浮かべてくれるようにはなった。ただ、それがあくまで仮面でしかないことは明白だ。単調な生活の中でもそれなりに凸凹はあって、緊張感と警戒心だけではない対応を見せてくれるようにはなってきた。だから、そのまま打ち解けてくれるかとも思ったが、未だぎこちなさは抜けない。
 もう半歩でもかまわない。まずはJの一番近くにいる大人たる自分が、彼の警戒領域をもっと狭める必要があるだろうと、土屋はそう感じていたのだ。



 重く澱んでしまった空気を打ち破るように、土屋は唐突に隣に座るJの頭をぽんぽんと軽く叩いた。ぴくりと身を竦ませ、それから目を大きく見開いて自分を見上げてくる子供に、土屋は笑いかける。
「明日は近所の神社で大きな祭りがあるんだよ。君の事を早く連れて来いってせっついたのも、それに間に合わせたかったからだと思うんだ」
「……どうして、ですか?」
 話題をいきなり変えられたことに、何かしらのうさんくささでも感じたのだろう。Jは、土屋の目の奥を覗き込むようにして視線を合わせてきた。どこか鋭さを含むその視線に晒されると、言葉の裏にある思惑ばかりか、自分の中身をすべて見透かされてしまいそうで、後ろめたいことなど何もなくてもどきりとしてしまう。
「君に、見せたかったんだよ」
 問いに対する答えは、Jの予測を外れたところに合ったらしい。ぱしぱしと目をしばたかせ、きょとんとした表情を浮かべている。


 偶然が重なり合った結果だった。
 たまたまあの日、母親が研究所に電話をしてきた。それを取ったのがJだった。電話を代わってみれば、Jの立場を早合点した彼女はさっさと日取りを決め、絶対につれて来いと脅迫をかけてきた。何とか事情を説明しようとの試みは、ここ数年、法事を散々すっぽかしてきたことといまだに独身という弱みを攻撃されてはなすすべもなく、こうしてなしくずし的に、Jを伴っての帰郷と相成っている。
 結婚をしたこともない自分が子供を養っているとか、その子が明らかに日本人の外見ではないとか、そういうことは全く気にならなかったらしい両親に説明をすること約一時間。聞く耳すら持たない二人からの質問攻撃をなんとかかわしながら概略を飲み込ませ、こうして縁側まで避難してきたわけなのだが。
「見せたかったんですか?」
「うん。私も見てほしかったからね。ちょうどよかった」
「なんでですか?」
「きっと、喜んでもらえるんじゃないかと思ったからだよ」
 大人の言葉の裏にある本心を探るように問いを重ねていた少年は、知らない言語でも聞いたかのように黙り込んでしまった。そんなJに、土屋はやっぱりにこりと笑いかける。
「昔からある祭りだからね。そんなに派手な面白さはないけれど、屋台も出るし。舞の奉納と花火はけっこうな見物なんだ」
「まいの、ほうのう?」
 耳慣れない単語に、興味が移ったのだろう。いぶかしげな表情で繰り返したJに、土屋は簡単な説明をはじめる。
 いつもよりも会話が長続きする。彼から質問をしてくれる。それも、好奇心ゆえに。
 よかったと、土屋は内心安堵する。
 環境を変えることは、膠着状態に入ってしまったJとの距離を縮めるための、半ば賭けだったのだ。まだ終わってはいないが、ひとまずは成功だろう。
 連れてきてよかった。この帰郷で、半歩前進の目標は達成できるかもしれない。


 ごろごろと、空の向こうで音がする。
「雷?」
「ああ、夕立かな。一雨来れば、だいぶ涼しくなるよ」
 二人して見上げた空には、巨大な入道雲。暑さを運び、それを連れ去る風は遠雷を運び、やがて雨をつれてくる。
to be continued...
ノスタルジア

 君に見せたかったんだよ、と言った。

 喜んでもらえるんじゃないか、と言っていた。
――この人は、自分のことをどこに連れて行こうとしているのだろう。
 いったいなにを言われているのか。頭の中が真っ白になって、次に浮かんだのは。
 やさしい言葉に対する、底知れない疑念だった。


 八月ももう終わろうというある日、唐突に泊りがけで出かけると告げられた。
 では自分は留守を預かるのかと思い、どのぐらいの期間なのかと問うたら、君も行くんだと付け加えられた。なんでも、先ほど取り次いだ電話の相手は土屋の母親だったとのこと。
「君のことを、どうやらその、いろいろ勘違いしたようなんだよ」
「はあ」
「それで、絶対連れて来いって、日にちまで指定されてしまってね。こちらが今の時期はそんなに忙しくないことは知られちゃっているから」
 もごもごと言葉を探して口ごもる土屋の姿は、すでに見慣れたものだった。自分が相手の言動や行動にろくな反応を示さないと、大概はこうやって口ごもり、困ったように淡い苦笑を浮かべる。いつもならばこちらもあいまいな笑みを浮かべて流すのだが、今回ばかりはそういうわけにもいかないだろう。
「ご実家に、お帰りになるんですね?」
「そうだよ」
「なら、お戻りになるのをまっています」
「え? あ、いや、だからね」
 状況を整理しようと問い返してみれば、土屋はほっとしたように首肯して、続けられたくだりに慌てて両手と首とを横に振る。
「だから、君の了承も得ないまま勝手に決めてしまって申し訳ないんだが、一緒に来てほしいんだよ」
「これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません。別に、一人でも事故など起こしませんので」
 どうぞ心置きなく。子供を単体で残すのが不安なのかと思い、別に気にすることはないというつもりで返した声は、やけに冷ややかだった。
 一瞬ぎょっとしたように目を見開き、土屋はやっぱり困ったように微苦笑を浮かべる。声のトーンはもう少し緩めにしておくべきだったらしい。失敗したと思うが、いまさら、後の祭りだ。
「君は、何かこっちにいたい理由があるのかい? 予定があるとか」
「特に何もありませんが」
「じゃあ、頼むよ。何もない田舎だけど、きっと気分転換にくらいなると思うから。どうだろう?」
 こちらの内心を知ってか知らずか、土屋はなんら気にした風もなく、とりなすような声で続ける。面前で手を合わせられ、頭まで下げられては断るすべもない。
 結局、なんだかんだとなし崩しで、Jは養い親の帰郷につきあうこととなったのだ。



 土屋の実家は、古い造りの日本家屋だった。
 どちらかというと鉄心にテンションのよく似た土屋の両親は、Jのことを見るなり、実の息子は放ったまま家の中へと招き入れ、冷たい麦茶やらスイカやらをふるまってくれた。
 げんなりした様子の土屋に、荷物を片付けておいでと部屋に案内され、ちょっと待っていて欲しいとのこと約一時間。再び現れた土屋は、やはりどこか憔悴していた。どうしてこんな生真面目な人が、鉄心のようなどこもかしこも掴み所のない人間と付き合えるのかと、大神と鉄心の関係とはまた別の次元で疑問を感じていたJだが、その点についてはなんだかわかった気がしていた。
 もっとも、いまの疲労はそれとはまた別のところに起因しているはずだ。ただでさえ、自分のような得体の知れない人間の素性を説明するのは骨が折れただろうに。


 冷えた麦茶を受け取って、二人で一息ついて。他愛のない会話は、けっきょく堂々巡り。わかっているのは、自分はこんな所にいていいはずがないということだけだ。
 帰郷とは、読んで字のごとく、ふるさとに帰るということ。
 彼のふるさとにいる自分は、明らかに異分子だ。何をもってというわけでもなく、普段以上に肌からじわじわ染み込むその実感が虚しかった。部外者ではないと言ってもらえるのは、抑えきれない猜疑心や違和感、それから確かに存在するむずがゆいほどの嬉しさとでごちゃ混ぜの気分だ。どうすれば割り切れるのかも、どうすれば気持ちを整理できるのかもわからない。あいまいな笑顔と素知らぬふりで、通り過ぎるだけ。
 やさしくされればされるほど、甘えていいのだろうかという淡い期待が湧きあがる。それは身の程知らずの傲慢だと、心はますます重くなる。


 話題を変えることで、重苦しい空気を打開するつもりだったのだろう。土屋は唐突にJの頭を軽く叩き、祭りがあるのだと笑った。いったい何を言わんとしているのかが掴めず、Jはは目つきが思わず鋭くなるのを自覚していた。どんな言葉の裏にだって、何が潜んでいるかわからない。そう思って警戒したのに、見せたかったのだと、土屋は実にのんきな答えを返してくる。
 本音なのか建て前なのか。相手を常に疑ってかかることしかできない自分は嫌いだった。
 この人は何を言っているんだろう。
 自分をどうしたいんだろう。どこに連れて行くつもりなんだろう。
 わからないわからない。
 混乱している自分に、土屋はにこりと笑いかける。続けられたもの珍しい単語に興味を移しながら、Jの内心は出口を見つけられずにぐるぐると回り続ける。わかっているのは、彼がやさしいということと、彼のみせてくれるものがどこか懐かしいということ。
 遠雷が聞こえる。二人で見上げた空には、巨大な入道雲。
「一雨来れば、だいぶ涼しくなるよ」
 穏やかな声もちらりと盗み見た横顔も、やっぱりやさしくて、どこか懐かしい。


 謝りたかった。
 やさしくてあたたかいあなたに、ボクは猜疑心を抱かずにいられない。
 それなのに結局できたのは、彼に気づかれないようにそっと、息を逃すことだけだった。
to be continued...
宵月夜

「まったく、いくつになっても落ち着きのない」
 隣でぼそりと落とされた声に、Jは思わず笑い声をもらしていた。連れ立って歩いているのは土屋の母。二人の視線の先には、夕闇で見通しは悪いだろうに、あたりを見渡してはそわそわと落ちつかなげな土屋の背中がある。まだ待ち合わせには少々時間があるが、そんなことはまったく考えていないらしい。
 ほんの少し足元が乱れて、Jは息を呑んでバランスを整える。
「おやおや。そんなに急がなくても、時間には十分間に合うよ」
 横合いからそっと少年を支えながら、彼女はほんのりと笑った。どうやら、知らず早足になっていたらしい。普段ならどうということはないのだが、どうにも浴衣に下駄といういでたちは慣れないためか、足元がおぼつかない。
「博士」
「ああ、早かったね。……って」
 しばらく進んで背後に立ち、そっと呼びかけたJに答えて振り向いた土屋は、予想外のその姿に、瞬きを繰り返す。
「なんだい、感想の一つや二つ、ないの?」
「え、ああ。よく似合ってるね」
「芸がないねえ。他にはないのかい?」
 じっと見つめられ、Jが反応に困って微笑んでいると、そのとなりから鋭い舌鋒が飛んでいた。我に返って破顔した土屋は、舌の先も乾かないうちに駄目出しを受け、眉を八の字に寄せる。
「そんなこと言われても、似合っているとしか」
「かわいいねとか、綺麗だよとか。言いようはあるだろうに」
「ええと、その浴衣はどうしたんだい?」
「私が用意しておいたんだよ」
 舌戦では分が悪いと悟ったのか、土屋は話の方向をほんの少しだけずらした。そんな心の内までお見通しなのか、単に乗せられただけなのか。土屋の母は、いい目をしているだろう、と得意げに微笑む。


 土屋の帰郷に半ば強制的につき合わされて二日目。土屋の両親は、ずっと孫が欲しかったんだよと、何も詮索することなくJのことを猫可愛がりしてくれた。土屋も十分に可愛がってくれているのが伝わってくるが、彼の場合はその前にあった諸々の事情が邪魔をして、どうしても腫れ物に触るようになってしまうし、邪推が入ってしまい、素直に厚意を受け取れない。それに引き換え、彼らから注がれる過剰ともいえる無心の愛情は、ぴりぴりと張り詰めていたJの心を、確かに少しずつ溶かしていた。
 今宵は神社の大祭があるとのことで、どこからか土屋の帰省を聞きつけていたらしい近所の男に連れられ、土屋は朝から父親とともに準備に借り出されていた。ゆえに夕方、祭りが始まるころを目安に待ち合わせをしていたのだ。
 いま着ている浴衣は、この帰郷が決まってすぐに土屋の母が用意したものらしい。電話越しに声を聞いて柄行きをイメージしたのだそうだ。しっとりと落ち着いた濃紺の地に、白で大胆に格子と夏草が描かれている。祭りに出かけるんならせっかくだからと願われ、着付けてもらったのだ。


 いきさつを聞いた土屋がなにか感想を漏らすよりも早く、彼女はひょいと首をめぐらす。
「おじいさんは?」
「神主さんと打ち合わせだそうだけど」
「じゃあ、私は舞い手さんたちの着付けを手伝ってくるからね。観終わったら、あんまり疲れさせないうちにちゃんと帰るんだよ」
「あー、はいはい」
「もっとしゃんとした返事をおし」
 うんざりしたように返す土屋にびしりと言葉を投げつけ、彼女はそっとJの頭をなでた。
「楽しんでおいでね」
「はい」
 素直に頷いたJに満足げな笑顔を送り、彼女はするりと人ごみを抜けていってしまった。年のわりにすっと伸びたその背を見送り、土屋はひとつ、大きく息をつく。その様子がなんだかおかしくて、Jはそっと、口元を押さえて笑みをかみ殺した。


 神社で大きな祭りがあるとは聞いていたが、そもそも祭り自体が物珍しい上、これほどの規模とは思ってもいなかったJにとって、すべてが不思議の連続だった。
 声に出さずとも興味津々の視線は伝わるものだ。土屋はJと連れ立って歩きながら、簡単に、並び立つ屋台の内容を説明してやる。
「あれは金魚すくいだよ。大きな桶がおいてあるだろう? あそこから、紙を張った道具で金魚をすくうんだ。破れたらそれでおしまい」
「紙を水につけたら、すぐに破けるんじゃないんですか?」
「んー、コツがいろいろあってね。意外とすくえるものなんだよ」
 それでも、やってみるかと問うても、Jは首を横に振るだけ。遠慮はいらないと言っても、決して首を縦に振ろうとはしない。すべて言葉は本心からのものだしJがいろいろ考えた上で反応しているのはわかっていたが、あまり強く言ってもと、土屋もまた適当なところで退かざるをえない。
 途切れてしまった話を繋げるべく、次はなにを説明してやろうかと視線をめぐらせていた土屋は、耳に届いたJの声に、顔を下向ける。
「いつも、こんなに人出があるんですか?」
「いや、今年は特別だよ。祭り自体は毎年あるんだが、中でも七年に一度、大祭というのがあってね」
 今年はそれに当たる。普段なら簡単に終わらせる神事をきちんと執り行い、子供から大人まで、踊り手や楽器の奏者を決めて準備を整え、舞の奉納を行うのだ。ちなみに、今回のそれら裏方の元締めには、土屋の両親があたっている。
「舞は全部で七つあってね。すべてをあわせてひとつの儀式となっているんだ」
「博士が子供のときからあったんですか?」
「うん。いつも、この祭で夏が終わったんだ」
 ふうんと呟き、Jは視線を前に戻した。


 舞の奉納は、完全に日が落ちてから、月明かりとかがり火の中で行われる。その前に腹ごしらえをしようと誘われ、Jは選ぶようにと示されたお好み焼きと焼きそばの屋台の前で眉根を寄せる。
「食べたことは?」
「……よく、わかりません」
 そもそも、食事にそんなに気を遣った覚えがなかった。食べられればそれでよかったし、それゆえ嫌いなものもなければ好きなものもない。パンとご飯と麺の区別はついても、その細かい分類を問われればお手上げの自分に、料理名と味とを結び付けて選べというほうが無茶のような気がする。
 どうしたものかと土屋を振り仰げば、両方買って両方食べればいいと、実にあっさり返された。
 単品の量を少なめにしてもらい、二パックずつ購入したそれを抱えて、二人は特設の舞台を目指す。Jが途中で目についた桶で冷やされているガラス瓶をなんとなしに眺めやれば、土屋はそれも購入。ビンはその場で開けてもらった。もはや遠慮しても遅いと、うながされるまま素直に口をつければ、さっぱりとした炭酸飲料がのどを滑り落ちる。
 特別な時間が過ぎていく。いつもと少しだけ色合いの違う時間だ。
 すべてが珍しく、すべてが新鮮で。Jは、普段はめったにない口元が自然とほころぶ感触に、ますます笑みを深める。



 お祭り騒ぎと祭礼の時間とを分ける花火が打ち上げられる。それを合図に、人々はぞろぞろと、境内の奥に作られた舞台を目指す。
 余計な照明が落とされ、かがり火と月明かりの下、場を清める剣舞がまず厳かにはじまった。間をおいて、次々と舞が続けられる。凛と張り詰めた空気に、楽の音が響く。息を詰めて見入っている子供の横顔をそっと見やり、土屋は目元を緩める。この非日常を共有できたことで、少しは彼の心を解きほぐすことになるだろうか。
 場を清め、神を呼ぶ。粛々と続く一連の歌舞の中、しんと静まり返った客席に小さなざわめきが生まれた。なにごとかと見やれば、社の奥にある森から迷い出てきたのか、数匹の蛍が飛んでいる。
――ああ、そういえば。
 古い記憶をたどれば、いつだってこの大祭の夜には不思議なことが起きていた。季節を過ぎた蛍がこうして飛ぶこともあったし、流れ星がたくさん見られることもあった。あながち神事というのも形だけではないのかもしれないと、いつだってそう思わされた。いまとなっては、懐かしくも特別な思い出だ。
 となりでいつになく目を輝かせている子供にとっても、特別で懐かしい思い出になればいいのに。そんなことを願いながら、土屋は改めて舞台を眺める。


 演目がすべて終わるころにはだいぶ夜も更け、深夜に近くなっていた。
 人波に流されるようにして土屋と境内を下りながら、Jはそっとあくびをかみ殺す。いつもならかなり遅い時間まで起きていてもわりと平気なのだが、非日常が凝縮された今日は、思ったより疲れているらしい。始まる前に、終わったらばさっさと帰るようにと促していた土屋の母の言葉の意味が、いまさらになってわかったような気がした。
 ようやく神社の本通りを抜けると、今度は逆に、がくりと人の数が減った。静まり返った暗い夜道を歩きながらそっと目元をこすると、唐突にとなりを歩いていた土屋が立ち止まった。なにごとかと思い慌てて足を止めれば、なんの前触れもなく、土屋は軽いかけ声とともにJのことを抱き上げた。
 事態の把握が追いつかず、声も上げられずに呆然としているJを抱えなおし、土屋はやさしく言葉をつむぐ。常ならず自分の下から響いてくる声に、ずり落ちないようにと思わず土屋の首に縋りついていたJは、ますます唖然としてしまう。
「疲れただろう? 下駄は慣れないだろうし、もう遅いから眠いだろうし」
 うまく隠していたつもりが、土屋には自分がすでに半分眠りかけていることがばれていたらしい。それはそれでショックだったが、何よりこれはあってはならない状態だと、Jは残っている理性をかき集めて降ろしてくれるよう願い出る。
「大丈夫です。ちゃんと自分の足で戻れます」
「たまには甘えてごらん。君はいつだって、無理が過ぎる」
 返されたのは、深いやさしさを湛えた大人の声と、あやすようにして背を叩く手の感触。
「寝ちゃっていいよ。大丈夫、君は軽いからね。落としたりなんかしないさ」
 理性が叫ぶ声を受け入れず、縋りつく手は土屋を離そうとしないし、体はその位置を嫌がって暴れようともしない。向けられるやさしさに思い知らされるのは、言われるとおり、甘えてしまいたいと願う己の心の奥底。


 今宵は特別だから。
 言い訳がましいと思いながらも、胸の内でそう呟き、Jは状況に甘んじることにした。あっという間に重くなるまぶたが閉じないうちに礼を言おうと口を開けば、ひょいとはぐらかされる。
 そのまま自己嫌悪の無限ループにはまり込むのが常の自分だ。そんなことを自覚しながら、少年は、抱き上げてくれる大人のゆとりを羨ましく、まぶしく思う。
 かなわない。どんなに背伸びをしても、駆け足になっても、自分はまだこの人には追いつけない。自嘲よりもなによりも、いまはそう、素直に思うことができる。


 夏が終わる。
 涼しい夜風に長時間あてて、寝ている子供が風邪を引かないように。土屋は少しだけ歩調を速めた。
fin.


 凝り固まっていた思いが、潮風に吹かれてほぐれていく。
 非日常の空間に飛び込んで、ここは舞台の上だからと言い訳を与えよう。
 だからどうか、もう少しだけ。君の心に近づかせてくれと、それは音にならない彼の願い。

 遠雷 --- 遠くで鳴る雷。夏の季語。
 ノスタルジア --- 故郷を懐かしみ、恋しがること。郷愁。
 宵月夜 --- 宵の間だけ月のある夜。秋の季語。

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