とあるA氏の憂鬱
「リーダー?
おーい!」
軽いノックのあと、返事も待たずにノブを回した少年は、毛布からかろうじてのぞく後頭部に、部屋の住人がドアに背を向ける形で丸まっているのを知る。
「薬もらってきてやったぜ?
起きてんだろー?」
わざわざ医務まで行き、あいまいに理由をぼかしながらも目的の薬を入手してきた彼は、耳をふさぐようにして寝転がっている相手にかける情けなど持ち合わせていなかった。軽やかな足取りでベッドサイドにやってくると、ゆっさゆっさと毛布越しに相手の肩をゆする。
「……エッジ、お前には病人を労わるという気遣いはないのか?」
「病人っつーか、自業自得?」
「よく考えろ。ごく普通の場合、お前がオレと同じ立場におかれたとする」
そうしたら、一体どんな反応をとったというのだ。
毛布を目元まで引きずりおろし、うっそりと陽気なチームメイトを見上げながら、ブレット・アスティアは唸った。
「逃げるね」
普通だろうと異常だろうと関係ない。それはもう、ありとあらゆるすべての手段を駆使して、戦略的撤退を図るに決まっている。だって、相手が相手なのだから。
エッジ・ブレイズ、ノリは軽いが頭は軽くない。
保身の必要性を知ってなお自己犠牲を払えるほど、彼は崇高な精神を愛してはいなかった。
そもそも、ことの発端は、この国独自の愉快な風習の存在だった。
そのイベント自体は、ブレットたちにとってもさして珍しいものではなかった。母国でもこの日はプレゼントやらカードやらを贈り交わし、親しい相手とささやかに祝いあっては楽しむものだ。
だが、この国ではどうやら意味がぐねぐねと曲解され、『女性が気のある男性に、チョコレートを贈る日』となっていた。
「だいたい、なんでチョコレートなのかが良くわかんないんだよねー」
「お菓子会社の戦略らしいぞ?」
「コカ・コーラ社とサンタクロースみたいな?」
二月に入るや否や、街中のいたるところに『ハッピー・バレンタイン』の文句とピンクの飾り付けが目立つようになったのだから、そういった豆知識と、日が近づくにつれ、レース会場などで具体的な品とが入ってくるのも遅くはなかった。とはいえ、特に代わり映えのない朝を迎え、なぜかキッチンを占領しているジョーだけが非日常。そんな平和な一日の昼下がりだった。
だったはずなのに。
「………なんか、この甘ったるい匂いって、まさか」
「まさかよもや、あれか?」
レースも練習も何もなく、ただなんとなくリビングに集まっていた面々は、キッチンから漂ってきたただならぬ濃厚な香りに、思わず顔を見合わせる。勇敢にも話題を口にしたのは、エッジ。その相手をして日本におけるバレンタインの歴史をとうとうと述べていたハマーDも、首をかしげながら匂いのもとへと視線を流す。
「なあ、誰かジョーの料理の腕前って知ってるか?」
読んでいた雑誌から目を上げ、ぐるりと室内を見渡したミラーが目にしたのは、一様に左右に振られるチームメイトたちの首。
「誰も知らないんだな」
重苦しい声で事実の確認を取り、ようやくクロスワードパズルから集中力を引き剥がしたブレットは、しばらく思案を巡らす。
誰も知らない。誰も知らないということは、危険性が計れない。いや、危険性が計れない以前に、もしかしたら安全かもしれない、その可能性すら否定も肯定もできない。
どうするのが安全かつ無難な方法なのか。集まる視線の中、いま、彼はチームリーダーとしての英断を迫られている。
――ぴるるるるっ!
「はいはい、はーっい!」
と、沈黙を縫うように、軽やかな電子音が部屋に響いた。内線の着信音である。すぐそばにいたエッジが返事をしながら受話器を取り、二、三言交わしてから通話口を軽く押さえて振り返る。
「本部の方にチョコたくさん届いてるから、取りに来いってさ!」
「あ、なら俺が」
「ハマー、オレも行く」
こういった種の作業は、一番体格のいいハマーDと、だいたい彼とセットで動くミラーの仕事だった。そそくさと立ち上がり、あとは任せたとばかりに目線だけでエールを送ると、二人は戦線離脱していく。人員が回されたことを確認してから、エッジはブレットに「Jから。まだ途中なんだ」と通話の続行を宣言し、受話器の向こうとの会話へと戻る。
さて、この場合、一体どうするのが最も賢い方法かと思案に戻りかけたブレットを、今度は部屋のチャイムが遮った。エッジは手が離せず、ならば自分が、と思って腰を浮かせかけた先で、エプロンをかけたジョーがひょっこりとキッチンから顔を出してインターホンをとる。
「ブレット、開けてきて!」
どうやら客人だったらしく、上機嫌に促すとジョーはキッチンへと引っ込む。
客人は、ブレットの愛しい恋人だった。
「こんにちわ」
唐突な来訪をわびる彼は、両手を後ろに組み、申し訳なさそうに入ってもいいかとはにかんだ。
苛烈な一面も持ち合わせるものの、総合してみればおとなしめの彼が、自らアストロレンジャーズの宿舎を訪ねるのは、実に珍しいことだった。
「いらっしゃい。コーヒーでよかった?」
タイミングよくキッチンからコーヒーのカップをもってきてくれたジョーは、華やかな笑みを烈に向ける傍ら、「でもちょっとだけいいかしら」と、問答無用でブレットの面前になにか黒い塊を突きつけた。
「食べてみて?」
芳醇な香りといい、まぶされたココアパウダーといい。それはどこからどう見てもトリュフだった。一体なぜ自分が、という表情を向ければ、ジョーは至極真面目な表情で返す。
「甘さを抑え目にしてみたの。エッジは甘党だから、リーダーに試食してもらうのが一番だと思って」
「そっか、リョウくん、あんまり甘いの得意じゃないからね」
「そういうこと」
納得したような烈の言葉に頬を染め、ジョーはずいとそれをブレットに近づける。
見た目よし、香りよし。ならば中身も大丈夫なはず。
目前の事実から未来を堅実に推測し、ブレットはトリュフを受け取って口に含む。
「味は?」
「まあ、いいんじゃないか?」
ほろ苦さの中に甘さを忘れない。まさに大人の味だ。
うん、とひとつ頷きを返せば、ジョーはぱっと表情を明るくし、出かけてくるからと一言残してキッチンから包装の終わった小箱を片手に部屋を後にする。ようやく受話器を置いたエッジが、なにか言いたげな様子でジョーの出ていったドアとブレットとを見比べるが、深呼吸ひとつですべての言葉を飲み込み、「お邪魔虫は消えるよ」と退散してしまう。
「で、レツ?
なにか用だったんじゃないのか?」
「今日、何の日か知ってる?」
「バレンタイン・デイ、だな」
実はブレットも甘いものは得意でないが、貰ったチョコの累計数は相当なものになる。幸い、すぐそばにエッジという大量消費を手伝ってくれる友がいるため処分法にはあまり困っていない。
「うん。それでね、これを」
「これは、もしかして?」
「君はいつも、僕に思いをいろんな方法でくれるけど、僕はそれがなかなかできないから」
だから、この機会に、思いの丈の詰まったプレゼントを。
後ろ手にまわされたままだった手が前に出されれば、そこには綺麗に包装のされた小さな箱。
「ジョーさんにね、あんまり甘いものが好きじゃないって聞いたから、レシピを貰って」
「作ってくれたのか?
レツが?」
「うん。うまくできてるか、自信がないんだけど」
もじもじと、言葉に詰まりながら上目遣いに見つめられれば、ブレットの思考回路は軽くオーバーヒートする。日ごろから愛くるしい恋人ではあるが、いじらしさまで見せられてはもはやどうしようもない。
「レツが作ってくれたなら、それだけで最高の出来に決まっているだろ」
歯の浮くようなセリフも軽く舌に乗せ、ブレットは許可を仰いでから包みをはがし、中から出てきたトリュフに双眸を細める。
「食べてみても?」
「うん」
つまんだそれを口に放り込めば、ココアパウダーのほろ苦さの向こうから、チョコレートの深い甘み。きっと幸せとは、こういう味なのだろう。
「どう?」
「最高だな」
素直に感想を述べれば、烈はふんわりと微笑を浮かべてくれる。幸せをしみじみ噛み締める向こう、脳裏の隅っこのほうで先ほど目にしたエッジの微妙な表情がちらついていたが、そんなことは気に留めず、ブレットは次のトリュフへと手を伸ばす。
「てゆーか、リーダーこそよく考えろよ。そんなに自分の体が丈夫だと思ってたのか?」
「標準よりは丈夫だ」
「じゃあ、きっと運が悪かったんだな」
肩を軽くすくめてから、ペットボトルのミネラルウォーターと薬のパッケージをベッドサイドのテーブルに置き、少年は起き上がろうとすらしない部屋の主に「他に欲しいものは?」と、それなりの気遣いは示す。
「腹は減ってねえ?」
「いまは食べ物のことは考えたくない」
「ま、無理もないな」
食べたときは良かった。文句なくそれらはおいしかったのだ。が、烈が辞してジョーが戻ってくるより少し前。異変がブレットを襲った。
言いようのない腹痛と悪寒。風邪を引いたのか、それとも食あたりか。原因の候補はいろいろと挙がったが、ブレット以外の全員が無事という時点で、すべては明白だった。彼らとブレットとの違い。それは、愛の手作りチョコを口にしたか否か。
とりあえず、薬を飲んで安静に寝ていれば、標準よりはそこそこ丈夫で若い健全な体をもつ彼のことだ。無事、回復することができるだろう。あとでまた様子を見に来る旨と、なにかあったら連絡するようにと告げて、エッジは背を向ける。
「そうだ、あの二人になにか聞かれてはいないか?」
「ジョーなら今は買い物行ってるし、リーダーは朝から熱出してることになってる。Jならさっき見舞いの電話をくれたぜ?」
ちなみに、昨日の電話でJは烈の驚異的な料理スキルを忠告してくれていたのだが、いかんせんタイミングが悪かった。もう少し早く教えるべきだったかな、と、申し訳なさそうな声音ではあったが実はあまりそう思っていなそうな、まったくもって読めないのだから恐ろしい。
ブレットの苦悶の原因が、実は烈の愛だけではなくジョーの愛にもあったことを教えてくれたのもJだ。貰いはしたがあとで食べようと、受け渡し場所であった土屋研究所のミーティングルームに置かれたそれは、ちゃっかり豪と二郎丸の腹に収まり、二人はいまベッドに縛りつけられているという。
「レツは?」
「今日はまだ会ってないってさ。会ったら会ったで、適当に誤魔化しといてくれるって」
「そうか」
あからさまにホッとした様子のブレットに、エッジは軽く眉をひそめる。
「あのさー、人の恋愛事情に口を挟むのが野暮だってのは知ってるけど」
ブレットは、一人の友人であると同時にチームのリーダーだ。その立場に見合った行動を要求されることは少なくなく、エッジはチームのナンバーツーとして、ブレットに助言をする必要もある。いまこそ、きっとそのときであろう。
「体は資本だぜ?
死なない程度に、ちゃんとセーブしておいた方がいいんじゃない?」
「善処しようとは思う」
もそもそと答え、薬を飲み下すと再び睡眠体勢に入ったブレットは、遠くで鳴っている電話のベルを知る。
「リーダー?
何でも、Jが謝りたいことがあるとかって」
電話に出たのはハマーDだったようだ。ブレットの寝室に顔を覗かせた彼は、不思議な相手を告げるとさらに不思議なコメントを添えて、コードレスフォンをブレットに手渡す。
「ブレットだが?」
『あ、ブレットくん?
ごめんね、病床についているところ、さらに悪化させるのか癒すのかわからないんだけど、うまく誤魔化しきれなくて』
「誤魔化しきれなくて?
一体なにを――」
会話は、耳朶を打つチャイムによって途絶えた。電話のベルに続くインターホン。なんだか素敵なデジャビュを感じる。
『とりあえず風邪ってことにしたら、きっと豪くんたちと同じだろうから、おかゆを作ってあげたいって』
受話器の向こうの声を、ブレットは半分も聞いていなかった。
どうやら途中で合流したらしく、ジョーと烈の話す声が聞こえる。拾える単語からわかるのは、あの二人が腕によりをかけて、ブレットのために病人スペシャルメニューを手作りしてくれるらしいことだけだ。
『医務じゃ追いつかなかったら、いい病院を教えるから、連絡してね』
健闘を祈るよ、と無責任な発言を最後に、通話は切れた。
「えっ、リーダー!?」
不意に、ベッドに起こされていたブレットの上半身が傾き、通話が聞こえないかと耳をそばだてていたエッジとハマーDは慌てた。
「てゆーか、どうしてレツ・セイバが?
ジョーと二人でキッチンって、危なくね!?」
支えてくれたハマーDにゆっくりと礼を述べ、ブレットはこめかみを押さえる。エッジの指摘はもっともなのだが、逃れる術など見つからない。彼らの厚意に嘘はない。厚意を向けてもらえることには、感謝こそすれ責める気など起こるはずもない。ただ、その厚意が必ずしもプラスの結果を伴うかといえば、そうでもないという、それが問題なのだ。
すなわち、ブレットに与えられた選択肢はひとつ。腹を決めるしかない。
「エッジ、もしもの場合には、Jがいい病院を紹介してくれるそうだから」
そのときには、事後処理を頼む。
いまわの際の言葉を残すと、事態の把握の追いついていないチームメイトたちを追い出し、ブレットは毛布に潜り込んだ。残されたわずかな時間を眠って過ごし、少しでも体力を温存しておくのが、いまは賢い選択だろう。
彼は知らない。これから訪れる時間を思っているこの憂鬱が、まだ序の口であるということを。
fin.