■ 背中合わせの距離
「後悔でもしてるわけ?」
 ゆったりとのんびりと、別に答えなど微塵も期待していない風にかけられた声に、彼はゆるりと首を巡らせた。声の主を振り仰いでも、相手はずっと手元を見つめたまま。視線を感じているだろうに、眉ひとつ動かそうとしない。
 部屋には彼がマシンをいじる音と、パソコンの低い唸り声が響いていた。他にもいくつかの人影が見当たるが、気配がざわざわとうごめくだけで、音声としての認識には至らなかった。奇妙に静まり返った空間に、彼の問いかけは何気ないくせに残酷に響く。
「してるの?」
 もう一度、今度は先ほどよりも語調を強めて、やはり彼は問いかけてくる。答えずに流すこともできるだろうが、それはあまり、彼が望まない行動だろうと思う。だから、必死になって言葉を探す。
 いかな問いであっても、とりあえずの答えすら返さずに黙りこくるのは逃避に等しいのだと叱られた。黙っていてはわからない。人の心など読めるわけもない。教えてくれないと、いつまでもよそよそしいままだ。そう眉を立てた彼は、怒るのでも責めるのでもなく、真剣に叱り飛ばしてくれた。
 いったい何を求められているのかが理解できず、気分を害してしまったのかと落ち込んでいたのだが、そういうわけではないのだと新しい養い親に後から説明された。一つ一つの言葉を掘り下げて、態度と表情を読み解いて、ようやくこの上なく気遣われていたことを知って、安堵と喜悦に満たされた。だからこそ、同じ相手に対して同じ過ちは繰り返すまいと思う。
 求められたならば、誠意をもって応えねばならない。それは、彼がそうして相対してくれることへの最大限の礼儀だ。


 短い言葉で言い切れるほど、この思いは単純ではない。だからといって、難解な言葉を尽くせばいいというわけでもない。どんな言葉をどんな風に用いればいいのか。悩んで迷って、ブツ切れでもいいからと、ただ単語を探す。
「よく、わからない」
 行き着いた先で拾い上げたのは、実に中途半端な言葉だった。
 己の決断と行動とに絶対の自信を誇れるほど、自分は強くない。いつでも後ろを振り返っては、もっとこうすればよかった。もしああしていればと、思い悩むことだらけなのだから。
 これでは物足りないかとも思ったが、素直な答えこそがもっとも相応しい答えだろうと判断し、ぽつりと舌に乗せた。いったい彼はそれに対してどんな反応を返すか。横目でちらりと流し見れば、彼はローラーの角度を調整しながら、ゆるりと口の端を持ち上げる。
「それは、後悔なんかしていないっていう可能性が、君の中にあるっていうことだよね」
 言い切った声は、確信に裏打たれた力強いもの。未来を確信する明るいもの。羨んで焦がれて手に入れたくて、手を伸ばし、そして隣で見つめることを許された光の塊。
「そうかもしれない」
 でも、違うかもしれない。
 光に焦がれるこの身は、決して光にはなれない。だから、光に対して陰を返すことしかできない。彼の確信と自分の惑いは、背中合わせに存在するものだから。


 あいまいに言葉を濁して、窓の向こう、空と大地との境界へと視線を流す。きらきら光る世界は眩しくて、時々、見つめるのが耐え切れなくなる。そして暗がりを求めてじっと部屋の隅でうずくまってしまう自分を、彼は知っているのだろうか。
「なら、いいや」
 答えを焦る必要はないのだと、彼はようやく自分を見つめて微笑んだ。
 この人の笑みには、不思議な力強さと、そして絶望が滲んでいる。ようやく邂逅が叶ったあの瞬間からそう直感していたことは、まだ告げていない。
 そんなコアなネタをはさんで相対するには、二人の距離は、まだ遠すぎる。
fin.

 暗闇に鎖された世界。
 君と僕との距離は、まだ見えない。
 見えないように、ヴェールをかける。見えないように、暗幕をかける。

parallel