三月うさぎは夢の中
 おいでおいでと笑う声。
 あそぼあそぼと誘う声。
 三月うさぎは陽気に笑う。
 三月うさぎは陽気に歌う。
 跳ねて飛び回りそして森の中。
 三月うさぎは陽気に踊る。
 いまは夢の中そして夢の中。
 三月うさぎの笑顔は寂しい。



 不思議な夢を見たのだという話をしたら、彼女は一度だけ瞬いて、ふうんと気のない相槌を返してきた。はじめは二人で交代制にしていたのだけれど、向き不向きという言葉をひしひしと感じたので、いつからか、料理は基本的にボクの担当だ。彼女は、無機質な素材は自在に操れても、有機物はどうやら苦手なよう。
「私は、その夢の中身を聞くべきなのかしら?」
「普通、こういう切り出し方をされたら、もうちょっと興味を持った振りをして、それで、みたいな感じで話を促すものだよ?」
「あなた、私にそういう乙女な反応を期待していたの?」
「ううん、まったく」
 むしろ、そんな反応をされた暁には、心配になって彼女のチームメイトたちに片っ端から電話をかけてしまうだろう。いったい今度は、なにがあって彼女の機嫌が悪いのか、と。
「ならいいじゃない」
 きっぱり否定したボクの言葉にはまるで気を悪くした風もなく、彼女はあっさりと話を流した。


 ボクだって、普段ならばこんなにあいまいな話を彼女に持ちかけたりはしない。彼女は、数字が好きだ。澱みも破綻もなくしっかと整ったロジックと、行き着く先が絞られている数式、そして明確な答えを持つ言葉の応酬が好き。そんな彼女が、他人の見た夢をいちいち気にかけるとは思えない。
 むしろ、それは個人の領分だろうと、踏み込むことを遠慮してくれるのが彼女の優しさだ。
 それぞれに、どうしたって他人には触れさせたくない領分がある。そこまで踏み込み、澱んだ気持ちの渦から救い出してくれる人は、とても貴重な存在だ。だけど、時にそれは仇となる。触れられたくない思いに触れられることは、誰にも本来はタブーに等しい。その境界線をきちんと見極め、一歩引いたところでずっと佇んでいてくれる人は、決して失ってはならない存在。そして彼女は、そんな稀有な存在のうちのひとりである。
「で、どういう夢だったの?」
「あれ、聞いてくれるの?」
「中途半端は嫌いよ」
 それに、彼女は決して人の心情の機微に疎いわけではない。いつもならば持ち掛けない話を、なんとなしに口の端に載せたボクの心の動揺を、きっちり見抜いている。わざとキツイ口調を保っているけれども、そのまなざしが優しく背中に注いでいるのを、ボクはきちんと感じている。


「三月うさぎが泣いていたんだ」
「三月うさぎ?」
 フライパンの中身を焦げ付かせないように気を配りながら、ボクは夢を瞼の裏に再現する。
「陽気な振りで歌いながら、三月うさぎが泣いている。強気に振舞って、そして森の中でひとりになる。それを知っていても、三月うさぎはやさしく笑っているんだ」
 夢の中を再び歩く。そこは細くて真っ白な長い道。ボクは三月うさぎと一緒に歩く。三月うさぎは金色うさぎ。春の日差しの毛並みを持って、春の緑の瞳を持って。
 ボクは三月うさぎの隣に立って、ランタンを片手に、足場の悪い道をゆっくりと歩く。はじめは草原の中を歩いていたはずで、そのときには周りにもたくさんの友達がいた。うさぎもいたし、人もいた。なのに、気づいたらみんな、それぞれの分かれ道を歩んでいってしまい、ボクは三月うさぎと二人になった。
 三月うさぎはとても強くて、ボクの助けなど必要としていなかった。
 仲間と一緒のゴールへと続く道を、一人で歩こうと見据える三月うさぎを、ボクは止めることができなかった。止めることは、三月うさぎが望まない。ボクも望まない。そしてボクは、一緒に歩きたいという思いも併せて押し殺した。
 ボクは自信がなかった。一緒に歩いて、そしてボクは三月うさぎの助けになるかどうか。三月うさぎの道行きを邪魔するぐらいなら、ボクは一緒には行きたくなかった。夢を追いかける三月うさぎの瞳が、どれほど美しいかを知っていた。それを言い訳に、ボクは三月うさぎから目を逸らした。
 そんなボクを見て、三月うさぎは言い切った。ついてくるなと拒絶を示した。


 用意しておいたお皿に出来上がった料理を移し、ダイニングへと振り向けば、三月うさぎと同じ色の瞳が、悲しそうに歪んでいる。
「泣かないで」
「泣いてなんかいないわ」
 いまにもその瞳の色を移した涙の雫が落ちる気がして、ボクは思わず囁いた。夢の中、離れていく三月うさぎに言えなかった一言を。すると彼女は強気に見返して、きりっとした表情でボクを叱咤する。
 馬鹿にするな、侮るなと。それは彼女の強さであり、彼女の強がり。時にそれを無視して内面に踏み込むことが大切なのだと、気づくことができなかったかつてのボクは、もう少しで大切な存在を永遠に喪うところだった。
「それで? その三月うさぎを、あなたはいったいどうしたいの?」
「手を取って、一緒に森に行きたかったんだ」
 なのに、三月うさぎはとても強くて、寂しそうな瞳で笑いながら、一人で森へと行ってしまった。ついてくるなと拒絶され、どうすればいいのかわからずに足を踏み出せない弱虫なボクを置いて、ひとりで森へと行ってしまった。
「寂しい思いはさせたくない。ボクはしばらくしてようやく追いかけるんだけど、追いつくのに時間がかかってしまうことを、とても悲しいと思った」
「でも、追いかけてくれるんでしょう?」
 ゆるりと微笑むその瞳は、やさしくて強くてでも寂しそうで、ボクは夢をもう一度、朝の光の中に思い出す。
「それで十分よ。あなたは、絶対に追いかける。追いかけてくれたもの」
「遅れちゃったのに」
「いいのよ。遅れた分は、取り戻せばいいの」
 やさしい微笑みに、ボクは三月うさぎが夢の中で、ようやく追いついたボクに見せてくれた笑顔を思い出す。


 食卓に揃ったのは、サラダとポタージュとパンケーキ。ポタージュはインスタントだし、サラダは野菜をちぎっただけ。ドレッシングは一応オリジナルだけど、パンケーキだって、かけるのはバターとメイプルシロップだから、ボクの手がけた部分なんて、ほとんどないに等しい。その分、パンケーキの焼き上がりには、細心の注意を払って。
「相変わらず、器用ね」
「一通りはできるけど、エキスパートにはなれない」
 ボクみたいな人間を、器用貧乏というらしい。その一言を教えてくれた彼女は、「それはそれで、便利だからいいのよ」と、あっけらかんと笑う。
 食べようか、と頷き合って、二人でフォークとナイフを取る。滅多に訪れることがないからこそ、大切にしたい、貴重な時間だ。
「今日は、なにか予定でも?」
「ええ」
 唐突に降ってきた休暇に、用意していたものなどなにもない。どうやって時間を過ごそうかと考えながら相手に問いかければ、にべもない返答。彼女が忙しいことはよくわかっている。それを覚悟で惚れたのだから、彼女の行く手を阻むようなまねはしない。ただそっと見守り、そしてひっそりと、影からの支えを必要とされたときに、手を差し伸べられればいいと思う。
「そっか。じゃあ、ボクは買い物にでも行こうかな」
 そろそろオリーブオイルが切れる。ちょうどいいからまとめ買いに行こう。ひとりで過ごす時間は、雑務にあてるのが一番いい。そうしないと、二人で過ごす時間が減ってしまうから。
「あら、酷いわね。私の予定は、あなたと一緒にのんびりすることなんだけど?」
「え?」
 独り言になるはずだった言葉には、いたずらっぽい笑みが返される。思わず間抜けな表情で見返せば、彼女は澄まして言い切った。
「遅れた分を、取り戻してくれるんでしょう?」
 そうだ、忘れていた。三月うさぎはとても強くて、そしてその分寂しがり。ひとりにしたらば死んでしまうから、ボクは必死に追いかけたのだ。



 跳ねて飛び回りそして森の中。
 三月うさぎは陽気に踊る。
 いまは夢の中そして夢の中。
 三月うさぎの笑顔は寂しい。
 追って追いかけて森の中。
 三月うさぎは待ってはくれない。
 それでも走って森の中。
 追いつき掴まえた三月うさぎ。
 三月うさぎの笑顔はやさしい。
fin.

 不用意に踏み込むことは慎むべきだけれども、踏み込むことを躊躇してはいけないこともある。
 踏み込めなくて後悔した日々を思い、踏み込めたいまを喜べる日々がある。
 だからこそ思い出したのかもしれない。かつての踏み込めなかったあの日の夢。

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