roost
「不思議よね」
「何が?」
「あなたと私の関係」
「そう?」
ベッドの中、体温を分け合える距離でうつぶせに寝そべる相手は、組んだ腕に乗せていたあごをずらし、わずかに視線を向けてきた。
先ほどまでの艶めかしい表情はどこへやら。一糸纏わぬ肌のそこかしこに赤く鬱血した跡を散らす彼女の肌を見ても、ちらりとも瞳の色を揺らさず、彼は生真面目な様子で小首をかしげている。なにもここで欲情して襲って欲しいとは思わないが、あまりに無反応だとそれはそれで、自信を失うか相手を疑いたくなってしまう。そこまでオンナとしての魅力に欠けているか、それとも彼の三大欲求かホルモンバランスに、異常でもあるのではないかと。
彼女の内心のため息など知る由もないのだろう。どの辺りが不思議なのかと、言葉にせず問うてくる雄弁な瞳に応え、彼女はくすりと笑みを浮かべる。
「恋人じゃないし、かつてそういう関係だったこともない。それなのにこうして、身体を重ねてる」
むしろ、共通の友人が彼女の恋人であった時期もある。もっとも、そんなことは関係ない。これは互いの合意の上に成り立つ行為。嫌悪感を催したこともなければ、無理を強いられたこともない。ごく自然に、成り行きといえばそれまでの行動。
「君こそ不思議なことを言うんだね」
彼は予想通り、ひとつ瞬きをしてからゆっくりと口を開いた。
お互いがまだずっと幼かった日、初めて出会ったときから、彼の癖は変わらない。思考を言葉に変換するとき、まず瞬きをして、それから声を発するまでに絶妙な間を持つのだ。嫌味ではなく、思慮深さを感じさせる不思議な空白をおく。
かつてはもどかしさを覚えたこともあったそれが、彼を構成する魅力のひとつだと、いまの彼女は認識している。
「目的を考えれば、ちっとも奇妙じゃない。生殖行動と位置づけるなら、ボクらは限りなく不毛で矛盾した行動をとっているけど、心身のメンテナンスと捉えれば、これはとても理に適っている」
「そう言うと思った」
頭の中に用意した言葉を、若干のニュアンスの差があるとはいえ、他人の口から聞くのは妙におかしなことだった。
わかっている。自分も彼も、こうして肌を重ねる目的は同じで、合理的な考えに基づいて、この行動を選び取っている。メンテナンスとは言いえて妙だと、彼女の忍び笑いは止まらない。
「こんな関係をあなたともつようになるとは思わなかっわ」
「ボクだって思わなかったよ」
何をきっかけにして、だったかは覚えていない。二度目の出会いを果たしたとき、二人の関係はただの古い『友人』に過ぎなかったはずだ。それがいつの間にか、こうして時に朝を共に迎える関係へと変化した。
彼は、この上なくやさしく彼女を抱く。それがベッドにおける彼の常のあり方なのか、それとも彼女にのみ発揮されるものなのかは知らない。ただ、時にもどかしさすら覚えるほど、やさしく触れるのだ。何かを強いることもなければ、我を忘れることもなく、無駄にテクニックを披露しようともしない。もっともシンプルな手順で、繊細なガラス細工でも相手にするかのようにそっと、包み込むようにゆっくりと。そして、じわじわと溺れさせていく。
はじめは相手の性格から、自分への気遣いか遠慮かと考えていたが、きっとそれだけではない。女の扱いに手馴れていればこそ発揮できる、いわゆる余裕というものなのだろう。焦らされて煽られて、わけがわからなくなる。
恋だの愛だのという複雑なものを挟まずに、ただお互いに欲求不満の防止と解消を目的にしているという事実も、それを助けているのかもしれない。とにかく、彼との逢瀬はやさしさに包まれながら追われて、そして底のない穴へと突き落とされるような、不思議なものだった。
潔白そうな顔をしておいて随分と慣れたものだと、何度目かの夜明けにそう感想を漏らしたら、彼は楽しそうに笑っていた。
女性遍歴を質してみれば、おとなしそうな外観に似合わず、呆れるほど華々しい。誠実でやさしい、実に女性受けしそうな性格をしているのに、どうしても長続きしないらしい。振られたのか振ったのか。理由込みで問うてみれば、返答は簡潔に、「ボクはいい人過ぎて、ダメなんだって」ときた。
やさしすぎて、いい人過ぎて、物分りがよすぎて。
だからかえって不安になるのだと、振られてばかりなのだそうだ。矛盾していると思うのだけど、と首を捻る彼の疑問より、そう言って去っていった女性たちの不安のほうがよくわかる。納得して笑っていたら、彼もつられたのか、どこか得心のいっていない風情を残したまま笑いだした。
そんな込み入った話までしていても、やはり、二人の関係は一風変わった『友人』であり、決して『恋人』ではない。周囲もそういう眼では見ていないだろうし、仲の良い異性の友人同士、と認識しているだろう。
くすくすと、何がツボにはまったのか先ほどから絶え間なく笑い続けている彼女をしばらくじっと見詰めていた彼は、小さく声をあげて姿勢をずらし、彼女の傍に寄り添ってシーツを引っ張りあげる。
「肩冷やすと、風邪引くよ」
ひじをつく形で軽く上半身を起こしていた相手をベッドに沈み込ませる力は、強制というより促すもの。さりげないやさしさも、以前から変わらない彼の特徴だ。
「君が嫌になったならそう言ってくれればいいし、恋人ができたなら、その人のところに行けばいい」
自分も、特定の相手に心を奪われたら、君とのこの不思議な関係を終わらせるだろうから、と、唐突に彼は話を蒸し返した。
「束縛する気はない。君の魅力を知っていればこそ、そんなことをする気にはなれない」
「私の魅力?
どんなところ?」
「誰よりも強いところだよ、一人の人としてね」
静かに言葉を紡ぐ彼の視線はただ穏やかで、真摯な誠実さを伝えてくれる。性別も年齢も関係なく、人として。その点を自分は尊敬すらしているのだと、彼は続ける。
「君はこの関係が不思議だって言ったよね」
「ええ、不思議。ただの友人でもなく、恋人でもなく、ビジネスですらない」
「それでいいよ。あえて言うなら
“roost” かな」
「止まり木?」
吐息が掠めるほど近くで、一枚のシーツに身を包みながら、これほど色気のない会話をする関係は、奇妙といっても差し支えないだろう。男でも女でも、三十分あれば落としてみせると豪語していた魅惑的な笑顔を浮かべられても、彼女はそれを純粋にいい表情だと思うだけで、特に心を揺さぶられたりはしない。色仕掛けも、口説き文句もなし。それは暗黙の了解にして無言の契約。だからか彼は、自慢の笑顔になびこうとしない彼女を気にした風もなく、大真面目に言葉を続ける。
「そういう存在も必要だろう?必要なら、羽を休めに来てくれれば良い。必要なければ、飛び立ってくれれば良い。ボクは少なくとも、君との関係をそう捉えている」
「じゃあ、私もあなたの
“roost” なの?」
「君が嫌じゃないならね」
君の傍は、居心地がいいんだ。
はにかむように微笑むと、年齢よりもずっと幼く見える。外観からは想像も及ばないが、東洋人の血を引いていると聞いた。そのせいだろうかと思う一瞬だ。
明日もお互い仕事があるのだから、そろそろ寝ようと促す相手に頷き返しながら、彼女は考える。
その考え方は悪くない。型にはまった捉え方をしようとするから不思議に感じるのであって、いままで自分の中になかったその単語を用いれば、定義のできなかった二人の関係が一言で片付く。
自分は彼の傍らで、彼は自分の傍らで。
それぞれに羽を休め、精神と肉体のバランスを整えて、そして再び羽ばたくのだ。
「Somebody to sleep with.」
小さく口にした単語に、彼は薄目を開けてはっきりと不快感を示した。
「そう思われてるのかなって、ちょっと思ってたの」
心はいらないと約束した、身体だけが特別な二人の友情。恋人でもない友人と肌を合わせるという違和感さえ拭ってしまえば、ていのいい掃き溜め扱いをされても無理はない。彼に限ってと思う一方、男などそんなものだと決めてかかっている自分がいたのも事実だ。
「心外だな。かけがえのない友人である君に対して、ボクはそこまで軽薄な倫理観は持ち合わせていない」
「知ってるわ。昔も今も、あなたは過ぎるぐらい真面目だから」
だからこそ、彼がこんな半端な関係を許容することが不思議だった。もっとも、彼には彼なりの、やはり不思議な観念があってのものだったことがわかったのだが。
「いい表現だと思うわ」
「君だけだよ。いままでも、そしてきっと、これからもね」
意味深な一言を残し、最近忙しくて疲れていたのだとこぼしていた彼は、すぐに静かな寝息をたてはじめる。
これでいい。
ただの友人というには深く、恋人ではないからあまりにも淡白。
きっと他人からみれば不可思議なことこの上ない二人の関係には、互いの了解さえあればいい。
隣の寝息を子守唄に、心地よい睡魔に身をゆだねながら、彼女はそれでも、と、そっと呟く。
「I want to be your only, last roost.」
覚えておいて。この関係を許容するのは、あなただけだということを。
fin.