■ 無間の底
 生きるということは、熱力学の第二法則に逆らうことである。
 拡散しようとするエネルギーを無理やり容に押し込め、ひとつのカタチを維持させる。閉じ込めることによって成り立っている。それは世界への反逆。
 ボクらは世界に包まれて、世界に逆らいながら生きている。
 死とは、エントロピーの増大。それは世界の法則。ゆえに絶対。ゆえに不可避。
 ボクらは世界に逆らいながら、世界の法則に向かって疾走している。


 今にも泣きだしそうな顔というものに遭遇するのは、実は珍しくもないことだ。かつて、この手から放たれる愛機が目に映るすべてを破壊しつくすために存在したとき、それはそこかしこに遍在していた。押し殺そうとして失敗しているものも、隠す気さえ起こらないものも、そこに怒りと憎しみを乗せるものも。ありとあらゆる色味に飾られて、感情が暴発する寸前の表情は、ボクのまわりに存在した。だから、見慣れていたはずなのに、目の前にある表情は、それらのどれとも似ていなかった。
 目尻をくしゃりと歪め、眉間にぐっと皺を寄せて。どうみても泣きだしそうなのに、どうみても笑っているようにしか思えなかった。泣くのも笑うのも堪えながら、その人は目を細めて、小さく「よかった」と呟いた。
 いったい何が良いものか。あなたを怒らせたくないのに。あなたに憎まれたくないのに。あなたを悲しませたくなど、ないのに。それなのに、あなたにこんな表情を浮かべさせている。あなたにだけは向けられたくなかった表情が、あなたによってこそ向けられている。
 その現実は、ボクに耐え難いほどの悲痛を強いるものだった。


 惑うように、恐れるように、宙をさまよった手はしかし、最終的にボクの額へと落ちてきた。そっと前髪をかきあげられて、そこではじめて知った冷や汗の存在に、内心で首をかしげる。
 そもそも、どうして自分はこんなところで寝ているのだろう。見覚えのない天井、見覚えのない寝具、見覚えのない窓の向こうの光景。ここは、ボクの居場所ではない。額にじわりと沁みこむぬくもりの持ち主がこの場にいなかったなら、きっとボクは自分を見失い、そして絶叫していたに違いない。
 こんな得体の知れない場所になど縛り付けないでくれと。
 ようやく許されたあの場所に、いますぐに還してほしい、と。



 悲しいかな、世界は厭きれるほど正確無比に時を刻む。それを感じる瞬間は、日常の端々に転がっている。それを自覚する瞬間は、非日常に通じている。
 おぼつかない眠りと目覚めを幾度も繰り返し、そのたびにあの人に出会う。徐々に疲労と憔悴の色を濃くしながら、あの人はそれでも「よかった」と繰り返す。
 よかった、よかった。君が目を覚ましてくれてよかった。何か欲しいものはあるかい。喉は渇いていないかい。どこか痛かったりしないかい。
 わぁんと残響を伴って脳髄を揺らしながら、あの人の言葉が胸に突き刺さる。
 言葉に含まれるのは、字面通りの意味だけではない。それをボクに身をもって教えてくれたのはあの人。それにいま、誰より苦しめられているだろう人。
 よかった、よかった。言葉は正の感情を示すのに、紡ぐ声が負の感情を滲ませる。
 よくないのに、よくなんかないのに。よくあって、ほしいのに。


 目を覚ますごとに遠くなる声と近くなる耳鳴りに、ボクは世界の法則を知る。
 永久機関は存在しえない。形あるものはいずれ壊れる。時間は無限に見えて有限。メビウスの輪を辿るようでいて、実のところ螺旋階段を走破しているだけのこと。
 それが世界。ボクに生を与えた『何か』の姿。
 生を与え、命を包み、死を与える存在は絶対。永遠という言葉の定義は、絶対という言葉の定義に似ていると思う。
 永遠は存在しえない。この、世界という存在をもってさえも。それは、絶対の肯定。
 絶対は避けえない。この、世界という存在をもってさえも。それは、永遠の否定。


 何度目かもわからない「よかった」を聞けたことを、ボクは素直に嬉しいと感じた。幾重にも響く耳鳴りは、潮騒にも梢のざわめきにも似ている。聴覚の隅を引っかくような小ささの時には不快に感じたそれも、全身をゆるりと抱くようになった今は心地よい。
 揺られて、揺られて。まどろみを誘う音響の向こうに、切望に彩られた「よかった」がもう一度。
 ボクらは世界に逆らいながら、世界の法則に向かって疾走している。
 留めるための堰はもう穴だらけ。ボクの中に押し込まれていたエネルギーは、いまこそ世界に向かって拡散しようとしている。
「よかった」
 小さく小さく呟いて、運動エネルギーには微笑みと感謝を乗せて。
 ボクは、世界にこの身を溶かし込んだ。
fin.

 終わりのない時間の底に沈み、僕は永遠をみる。
 始まりのない時間の底に沈み、僕は絶対を知る。
 何もない時間の底に沈みながら、僕は世界を知り、あなたに別れを告げる。

parallel