彼の言葉とその心
うわっと上がった声にJがひょいと目をやれば、豪が室内のとあるパソコンの前で、中途半端な姿勢のまま固まっていた。
例によって例のごとく。気づけば土屋研究所はコースルームに集まり、思い思いにマシンを走らせたりセッティングを煮詰めたりしていた面々は、声をあげたはいいものの、そこからぴくりとも動かずにいる豪に、いぶかしげな表情を浮かべて目を見合わせる。
彼らの間で随一の元気印が、三秒以上じっとしていることなど、滅多にあることではない。
「どうかしたんでげすか、豪くん?」
ちょうど部屋の反対側までマシンと共に回っていた烈とリョウが追いつくよりも先に、手近にいた藤吉が声をかける。
「え、あ、あ……」
「日本語になってないでげすよ」
「暑さで頭でもやられたんだすか?」
しかし、豪はぎこちない仕草で首を巡らせはしたものの、やはりその場に縫いとめられたまま、なんとも判別のしがたい声を発するだけだ。呆れ果てた声音で藤吉が冷静にツッコミを入れても、二郎丸がなかなかシビアに評しても、いつものような烈火のごとき反論がない。
「やめてよ、二郎丸くん。すごく信憑性があるじゃない」
「豪? 何があった?」
調子を狂わされた感が否めず、困惑した様子で目と目を見合わせていた藤吉と二郎丸のすぐ後ろから、軽やかな声が響いてくる。烈とリョウが、コースから戻ってきたのだ。
実の弟がこけにされたというのに、烈はまるで気にした様子がない。お前はそれでいいのかと、雄弁に語る瞳を瞬かせることですべての言葉を飲み込んだらしいリョウが、改めて豪に向き直る。
「あ、あれ! その――」
「いい加減にちゃんとした日本語を喋れよ、豪」
「で、でも! 兄貴は見ちゃ駄目っていうか、えっと、その。あーっ、だからっ!!」
どうしても言語中枢が回復しないらしい豪に、烈は冷ややかな半目を向ける。それまでで最も冷たい反応に、豪はようやく声を取り戻す。しかし、言っていることが支離滅裂なのは相変わらずだ。
「ああ。もしかしてディスプレイに、見えた?」
と、それまで我関せずといった様子で、ただ近くに寄ってやりとりを眺めていたJが、何かを思い出したような調子で豪に問いかけた。
ざっと顔から血の気を引かせ、それでもなんとか頷いた豪に、その他の面々は話が読めずに首をかしげる。別に、ディスプレイになんらおかしいところはない。電源が入っていないため、真っ暗なのは当たり前。全員でじっと見つめている顔が反射されて写っている。強いて言えば、それがいつもと違うだけだ。
どういうことかと説明を求める豪を除いた四対の瞳を順に見回してから、Jはふと表情を曇らせ、おもむろに豪の目の前にあるパソコンへと視線を向けた。
「その人もね、かわいそうな人なんだよ」
「えっ?」
しみじみと呟かれた声には、底なしの悲しみが滲んでいる。意味深な単語にぴくりと表情を引き攣らせた周囲を視界の隅で確認し、そのあまりにわかりやすい反応にふわりとどこか悲しげな微笑みをみせたJは、ゆっくりと口を開く。
「昔ね、この研究所ができるよりずっと前、この辺は深い森だったんだって」
固唾を呑んで己の声に聞き入る空気に、Jの思いつめたような声が、じわじわと染み入っていく。
「ある日、町の意地悪なお金持ちの人が、わざと高価な食器を隠して、その家の女中さんに濡れ衣を着せていじめたんだ」
お前が盗んだに違いない、返すまで戻ってくるなと追い出されてしまったその女中は、何を言われても心当たりはなかったが、仕方ないから必死になって町中を探して歩いた。探しても探しても、それでも食器は見つかるわけがない。絶望にくれて歩き回っていた様子を見た通りすがりの法師が、彼女を呼び止めて探しものの行方を占ってくれた。
求めるものは薄暗い場所にある。
その本当の意味は、彼女の仕えている屋敷の蔵ということだったが、女中はてっきり、泥棒が盗んで、森に隠したに違いないと勘違いした。
「それで森に探しに入ったのはいいんだけど、食器はあるわけないし、道に迷って帰るに帰れなくなって。仕方ないから、そこで自殺しちゃったんだ」
「じゃ、じゃあ、もしかして。おれが見たのって」
ふうっと一息ついて言葉を切ったJに、両手を力いっぱい握り締めていた豪が、慌てて口を挟む。
「心がね、ここから動き出せないんだよ」
瞬きをひとつ。そっと眉根を寄せて笑みに更なる翳りを落としたJは、ぽつりとそう答えた。
がたがたとにぎやかな音を響かせ、烈は無意味に傍らにあった椅子を巻き込んで床にしりもちをつく。その首もとには豪の両腕が回っており、星馬兄弟は互いにひしとくっついたまま、床の上でカタカタ震えている。目を大きく見開いた二郎丸はリョウのズボンに縋りついており、そのリョウも、言葉が出てこない様子で引き攣った表情を貼り付けている。
ただし、例外がいた。
「意外とお茶目なんでげすな、Jくんは」
ため息ひとつで表情を緩め、扇子をパタパタと動かしながら、藤吉は上目遣いにJを見やった。
「あれ、通じなかった?」
「どこで聞いたんでげすか? あれは、 “お岩さん” のアレンジでげしょう?」
「昨日ね、テレビでやっていたのをちょっと」
軽やかに笑い合う二人に、震えていた残りの面々が、徐々にその表情をいぶかしげなものへと変えていく。
「えっと、藤吉くん? つまり、どういうこと?」
「Jくんのちょっとした冗談、といったところでげすよ」
おそるおそる問いかけた烈に、藤吉があっさりと応じる。
「じょうだん?」
オウム返しに藤吉の言葉をなぞると、烈はへなへなと、さらに力を抜いてその場にうずくまってしまった。
どこか張り詰めていた空気が緩み、安堵したような肩透かしを喰らったような、生ぬるい雰囲気が漂いはじめる。
「ごめんね、烈くん。そんなに怖がってもらえるとは思わなくて」
完全に腰が抜けてしまったらしく、立ち上がれない烈に手を差し伸べながら、Jは申し訳なさそうな笑みを添えて詫びの言葉を向ける。
「ううん、いいよ。ちょっと驚いたかな」
「ちょっとじゃなくて、超びびった! やめてくれよな、まったくー」
「おらも、心臓止まるかと思っただす」
「まったくだ」
「いきなりすぎたかな?」
次はもう少し気をつけると付け加えたJは、しかし、ふと首を巡らせて生真面目な表情で中途半端に空中を見上げる。
手に込められる力がすとんと抜け落ちたことを感じながら、烈は苦笑を浮かべてJの手を引く。
「Jくん? さっきの今では、もう通じないよ?」
「そうそう、いくらなんでも――!?」
兄の言葉に同調しながらひょいと視線を同じ方向に向けた豪は、そのまま言葉を途切れさせ、ひくひくと頬の筋肉を痙攣させる。それは烈も、リョウも二郎丸も、果ては藤吉も同じこと。
「あ、ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
軽く笑みを浮かべて烈の手からそっと手を抜き取り、Jはその斜め上空に向かってごく小さな声で囁きかけながら、小走りに部屋を後にする。
「あ、あは、あははははっ」
「あ、兄貴!?」
「烈くん、しっかりするでげす!」
「あんちゃーんっ!!」
「お、落ち着け。落ち着け二郎丸」
一方的に残され、完全にパニックに陥った面々には、それから十分後。戻ってきたJに対し、先の言動と行動の真意を問いただす勇気のあるものは、一人もいなかった。
fin.