「姉ちゃん!」
レースの終わりを見届けて、Jは慌てて目当ての人影を探した。いま見失ったら、次がいつになるかわからない。いや、次が確実にあるか、それさえも。
「待ってよ、ねえ!」
離れていた時間が長くともわかる。あの姉は、たとえリタイアしようとも己の出場したレースの顛末は見届ける。そして、誰にもそれを認められないまま立ち去ることを好むはず。
表彰式がはじまったばかりのこのときに、出口に向かう観客など皆無だ。人気のない通路を進む、しゃんと伸びた細い背中は、だからすぐに見つけられた。
「姉ちゃん!!」
幾度目の呼び掛けか。聞こえていないはずがないのに、ものともしない歩調に、ついに声が引きつれた。絶望の滲む悲鳴が唇を割る。
「姉ちゃん……っ!!」
駈けてかけて、レーシングボックスを持っていない腕を掴む。いま逃がすわけにはいかない。思いは指先を操り、過剰なまでの力をこめる。
ささやかな呼気がひとつ、鼓膜に届いた。
姉がようやく立ち止まったのだ。
呆れたように流された視線は、Jではなく掴まれた腕に据えられた。服にしわを刻むだけではおさまらず、指の関節は力の入れすぎで白んでいる。
「放せ、バカ」
「バカじゃないから放さない」
単調な、やっと自分に向かってかけられた声に、Jは噛み付くように切り返す。
「放さないなら振り切るぞ」
「振り切らせない」
更に力をこめて畳み掛ける。
「放さないから」
もうひとつ、呼吸を逃がし。Rは体ごとJに向き直る。
「……放せ、バカ」
目は腕に据えたまま、今度は呟くようにRは促した。
「逃げないで話を聞いてくれる?」
先までの強気はどこへやら、上目遣いに姉の顔を見やり、伺いを立てる様は頼りない。
「逃げてなどいない」
「姉ちゃん!」
しらっと言って進行方向に視線を流す。この期に及んでなにを言うのか。呆れを滲ませながらも非難の声を上げた弟は、姉の表情の変化に、小さく目を見開く。
「放せ。痛い」
続けて放たれた言葉に、今度こそ本気で驚いた。姉が誰かに何かを訴えたことなど、記憶の限り、存在しないからだ。
「え? あ、ごめん」
単調ながらも確かに乞われた声に手を離す。見れば、握り締めていたRの右手は、血が止まっていたらしい。左手に比べて、あからさまにその指先から血の気が引いていた。
記憶にあった姉は、こんなに儚げだっただろうか。
思いがけないRの一面に、Jは驚きを通り越して不安を覚える。記憶の中のRは、大きくて、揺るぎなくて、どんなにJが努力と成長を重ねようとも決して追いつけそうにない存在だったのに。
二人が別れた頃に比べれば随分大きくなった、それでもまだ細くて軟弱な己の手を見やり、Jは瞬く。離れた時間は、思っていた以上に重いものだったのだろうか。こんなやりとりに驚きを覚えるほどに。
「だからバカだというんだ、バカ」
俯いて感慨を噛み締めていたJは、やわらかな声の響く方向に、はっと目を上げた。いまだとどまっているものの、背中を向け、Rはいまにも歩きだしそうな様相である。
「時間がないんだ。話があるなら歩きながらにしろ」
なおも逃げようというのか。Jが咎めるよりも早く、Rはそう宣告して足を踏みだした。
「時間? なんの?」
理由を告げてきたからには、これ以上強引に引き止めれば本気で逃げられるだろう。不本意ながらも諦めて後を追い、まずは残された時間を問う。
「飛行機」
「え……?」
あっさり返された答に、Jは言葉を見失った。
「戻るんだ、向こうに」
我ながら間抜けだと感じた声は、姉にはよほど間抜けに感じられたのだろう。イライラと継ぎ足される。
「姉ちゃん、また行っちゃうの?」
「戻るんだ」
寂しさに震えた声に、力強く訂正の言葉。たったひとつの単語に、Jは改めて時間の重みを思う。
「話があったんじゃないのか?」
「こっちに、帰ってきてくれないの?」
先に進められようとした会話を、繋ぎ止める。明確な話題があったわけではない。ただ、姉を引き止める手段が欲しかっただけ。
半歩先を進むRが、不意に立ち止まった。
「どこに?」
抑揚のない、冷たい声だった。
ぞくりと震え、Jは足が竦むのを感じていた。気迫に呑まれ、呼吸さえ奪われる。
そうだ、これでこそ姉だ。強くて遠くて、敵わない。
「お前、そんなことを言いにきたのか?」
くだらない。
そっけなく言い捨てて、Rは再び歩きはじめた。
慌てて追いつきなおし、Jは口を開く。本当は腕をとりたかったが、それは我慢した。
力ずくならばもう負けないだろう。でも、それを承知の上で本気で振り払おうと抵抗されたら、立ち直れない気がした。
「あのね――」
「断る」
ぴしゃりと遮られ、Jは反射的にRの顔を振り仰いだ。
「大神博士のやり方は気に喰わない。土屋といったか? そっちとはそもそも主義が違う」
続けられたのは、たしかにJの言いたかったことへの返答だった。なぜわかったのかと瞬きを繰り返せば、鼻で笑われる。しかし、やわらかく。
「お前の考えていることなんか、言われなくても察しがつく」
包み込むような声に、Jは深い安堵を覚え、そこではじめて自覚した。離れていた時間よりも、隣り合う時間が恐かったのだ。二人の間に埋めようのない溝を見つけてしまう気がして。
前を歩いていた姉が立ち止まり、追いかけていた弟も立ち止まる。そこは、会場付属の駐車場の外れだった。
「私は戻る。お前はこっちにいればいい」
「姉ちゃん……」
振り返り、姉は告げた。
「別に、私がいなくたって、もう大丈夫だろ」
引き止める言葉は、透明な水色の瞳のやわらかさに呑み込まれる。
行ってしまう。引き止めることはできない。ならばどうかとJは最後の選択肢に縋る。
「次はいつ会える?」
震える声を叱咤されるかと思った。バカなことをと鼻で笑われるか、知らないと突き返されるか。無意識に、しかし反射的に挙げられた反応の予測パターンは、ことごとく裏切られる。
「約束が必要か?」
瞳と同じくやわらかな声。姉が一人の女の子であったことを思い知らされる、やわらかくて甘い声。
「次に会うための約束は、それまで会えないっていう約束だろ」
左手を腰に当て、右手で左頬を包まれる。幼い頃によくやられた、姉が弟を慰めるときのお決まりのポーズ。そのままふっと姉は意地悪い笑みを浮かべた。
「会いたければ会いにこい。私は、逃げたりしない」
「……うん」
挑発するような物言いに、Jは小さく頷いた。他のいかなる返答も許されないのだと知っていた。
「じゃあな」
「元気でね」
弟の反応に、姉は満足そうに頷き返し、笑いながら頭を撫でて踵を返す。笑みではなく、笑った顔を残して。そしてRは、海の向こうへと帰っていった。
凛と力強く伸びた背中は、思っていたよりも細かった。
決して口数が多いわけでもなければ、器用でもないふたり。
だけど、言葉以上のもので交わされるものがあるふたり。