父と娘と少年と
「パパ、出てって」
「………」
帰宅すると同時に、なんの前触れもなく。
娘にはじめてそう冷たく言い放たれたときの気持ちを、一生忘れることはないだろうと。相模タモツ、三十七歳は、真っ白になった思考回路の隅で冷静に思った。
娘を持つことは大変だ。
目に入れても痛くなくて、本当にかわいくて仕方なくて、一生懸命かまったところで、年頃になればどうせ「パパ、くさい」とかなんとか言われて、毛嫌いされるのが落ちだ。そうなる前に、できる限りの予防策を張るべく必死に研究を積み重ねてきた。
親としては時に厳しく。でも、父親としては、娘にこの上なく甘く、どうにかして嫌われないように心を砕いて頑張ってきたのだ。
ああ、それなのに。
「ちょっとパパ? 聞いてるのー?」
店の入り口付近で石化している父親に、娘の無情な言葉が投げつけられる。
「え? ボク、用事が――」
「そんなの後よ!」
「あ、あの、後ででも別に、それはかまわないんだけど。それより」
あまりの言いようではないかとジュンを諌める救いの声が、タモツを生き返らせた。よく見れば、店内にいるのは娘だけではない。
実に珍しいこと極まりない客は、娘のジュンが居座るカウンターの横にちょこんと座り込み、まじまじと見つめるタモツに向かってぺこりと頭を下げた。
ジュンが店番をしているのはよくあることだ。お金はなるべく扱わないようにしているが、学校から帰ればたいていみせに顔を出すし、近所の子供たちのたまり場でもある店のカウンターに座り込んでいるのを、ジュンはけっこう気に入っていたりする。
今日も今日とて、学校から帰って、特に用もなかったため、ちょっと出かける用のあった父親に代わり、彼女は店先へとやってきた。
右手には筆箱。左手には教科書とプリントとノート。
宿題セットは完備で、忙しくなる前の時間はたいてい、カウンター内であれこれとやるべきことをこなすのが彼女の常だった。
「いらっしゃいませー」
かららん、と響き渡ったドアベルの音に、ジュンは眉間に寄せていた皺を瞬時に消し去りながら、プリントから目を上げた。
明るく朗らかに第一声。店に来てくれた客への第一印象が悪くならないよう、ジュンが心がけていることのひとつである。近所の子供たちが集まりだすにはまだ少し早いと思いながら目をやった先には、エキゾチックな色の取り合わせがあった。
「……こんにちは」
店に入ったところで少し戸惑うように眉尻を下げ、抑揚のない小さな声でそう挨拶をしてくれたのは、Jだった。
「あら、いらっしゃい!」
出会ってから日は浅いものの、夏休みの終わりには一緒にキャンプに行った身だ。扱い方は、きちんと心得ている。一般客向けの表情から一転して、にこりと笑うと、相手の無表情っぷりにもめげることなくジュンは気さくに声をかけ、カウンターから身を乗り出しながら「珍しいじゃない。どうしたの?」と続ける。
「博士の、お使い。おじさんは?」
「パパ? いまは出かけちゃってるわよ」
「え? そうなんだ……」
どうしよう、と困惑げに口の中で呟き、視線を足元に落としたJに、ジュンははきはきと提案を投げかける。
「もし急がないんなら、待ってれば? どうせすぐ戻ってくると思うし」
その言葉に顔をあげつつも、決断しかねている少年を自分の隣に招き、座るように促して、ジュンはさっさと話を進める。
「いいじゃない。二度手間になるより、そのほうがいいって!」
割り切れていない様子は残っていたが、こくりと小さく頷き、Jはおとなしく示された場所に腰を落ち着ける。それを確認し、ジュンは改めて宿題に向き直った。
時計の秒針の音だけが響く、静かな時間が続く。ジュンはプリントとにらめっこをしたままだし、JはJで、特にやることもなく、ぼんやりと店の中を眺めている。
唐突に、ジュンは「よし」と呟くと、鉛筆を握り締めてノートになにごとかを書きつけはじめた。書いては消し、プリントを見てうなり、また書いて、消して。延々そんな作業を繰り返している。
なんとなく興味をおぼえ、そっと覗いた先にあったのは数式がいくつか。算数の宿題らしいことをさっさと見てとり、暇にかまけて、Jはプリントとノートとジュンの挙動を、興味深く観察する。
散々苦労しながら問題を順次攻略していくジュンを静かに眺めていたJだったが、不意に「あっ」と小さく声を漏らした。
「え? 何?」
「え、あ……」
ぱっと振り向いてきたジュンに見つめられ、Jは気まずそうに視線を泳がせるが、あきらめる様子のない相手に、おそるおそるといった調子で口を開く。
「まちがってる」
「えっ!? どこどこ?」
「ここ。このやり方は、ちょっとちがう」
ノートと鉛筆を手にずい、と身を寄せられ、Jは素直に記述の一部を指で示してみせた。
「えーっ!? じゃあ、どうやんの?」
困りきった様子でさらにカウンターから教科書を持ち出し、眉を八の字に寄せて考え込んでいたジュンは、やがて音をあげてJに鉛筆を差し出した。教えろと言われているのだと、一拍おいてからようやく理解し、Jは鉛筆を受け取ると、件の記述の脇に、すらすらと式を示しながら説明を加える。
「こっちを先に計算しておかないと、後から混乱すると思う」
だから、これを計算してからそっちの式に戻って続けてみるように、とJが指示を出すと、ジュンはしきりに感心しながら、言われたとおりに解答を進める。
「ホントだ、できた!」
鉛筆が紙面の上を走る音がやむと、ジュンは顔をあげ、Jに向かってぱっと笑いかけた。
「ありがとね、助かっちゃった」
「どういたしまして」
送られた言葉に淡い笑みを浮かべ、Jはちょこんと小首を傾げて応じる。
「ねえ、算数得意? だったら、ついでに残りのもみてくれない?」
「え?」
「どうせ、パパが戻るまでいるんでしょ? ね、お願い」
「ボクでよければ」
両手を合わせながら上目遣いにじっと見つめられ、Jは勢いに呑まれながら頷く。
「ありがとう!」
礼の言葉に続けていそいそと筆箱から追加された鉛筆を渡されながら、Jはほんのりと笑い、ジュンと一緒になってプリントの問題へと目を走らせはじめた。
ジュンの、タモツにとっては脈絡のまったく読めない鋭い言葉をやんわりとなだめたJに簡単に事情を説明され、タモツは心を覆っていた暗雲が晴れていくのを感じていた。
まだ娘は、いわゆる難しいお年頃にはさしかかっていない。
そんな初期から嫌われては大変だと、内心ものすごく焦ったのだが、そういうわけではなかったらしい。
ホッと詰めていた息を吐き出し、タモツはJが土屋から預かっていたという用件を先に聞き出す。
「ああ、それならちょっと出してくるから、待っててな」
「はい」
Jのお使いの内容は、以前タモツが頼まれていたパーツとマシンの種別売り上げの統計を渡してほしいというものだった。必要な書類を取りに店の奥に引っ込みながら、まだみてもらいたい問題が残っているのに、と嘆く娘のために、タモツは振り向いて少年に声をかける。
「Jくん。もしまだ時間があるなら、ジュンにもうちょっと付き合ってくれるか?」
「あ、はい。ボクは別に、かまいません」
「本当!? じゃあ、これ終わるまで、お願いね」
恨めしげに父親の背中をねめつけていた娘の表情は花のようにほころび、微かにはにかむ少年へと向けられている。これ以上店番をしている必要もなくなったからと、自室に引き上げて続きをやるつもりらしい。しきりに遠慮しているJの手を取り、ジュンはさっさと移動を開始する。
「あ、そうだ! パパ、Jはせっかくみてくれるんだから、終わったらおやつとか、出してちょうだいね!」
「え? あ、別にそんな、たいしたことはしてないし……」
「いいのよ、遠慮はしないの!!」
Jには穏やかに、タモツにはシビアにと、見事に使い分けられる声音にちょっとだけ理不尽を感じながら、通りがかりの娘の要求に、タモツは了解の意を告げる。
娘からの父親の扱いなんて、こんなものさ。
切ない扱いに心の中では滂沱の涙を流し、タモツは、今日のおやつにと思っていたとっておきのドーナッツを、娘とその臨時家庭教師へと捧げることを決意するのだった。
fin.