equation dilemma
図書館に向かって走る廊下の途中、すれ違った同年代の女子の浮ついた声に、ジョーは思わず、形のいい眉をきゅっと寄せていた。あの様子では、きっと、図書館内でもろくに集中して勉強などしていなかったに違いない。そういう存在は、真剣に勉強をしようと思っている側からすれば、たとえばまわりで羽虫に飛ばれているように、集中力をじりじりと削られて迷惑だと、常に思っている。
気持ちの切り替えぐらい行えなくて、何が宇宙飛行士の訓練生か。
苛立ちにかまけてそんなことを考えもするが、彼女たちの気を散らした原因と自分が普段気を散らしている原因が、直接的には違うもののそう遠い内容ではないことを知ってしまった昨今はなおのこと、それは自身へと鋭く返ってくるようで耳に痛い。
内心の思いを振り払うようにして、先ほどまでよりも歩幅を広げ、ジョーは廊下をひた走る。
今日は天気がいいから、広い館内でもいる場所は大体見当がつく。エレベーターがしばらく来ないだろうことを見てとり、ジョーは軽やかに階段を上っていく。目指すは5階のテラス脇のスペースだ。集団学習ルームが並ぶこのフロアを単体で利用する人間は少なく、その分、階段を上がってすぐのところに設けられている学習スペースは、意外な穴場としての利用価値が高い。通いはじめて早々にこのスペースを見つけた彼は、目的の本をじっくりと書架の合間で吟味した後、たいていここまで上がってきて、ひとりで活字の海に潜っていることが多い。天気がいい日は特に、空に近くなったようで気持ちがいいから、と笑っていた。
もっとも、堂々と昼寝をしていたのを見つけたときは、意外な神経の太さを思い知らされたが。
階段を上り詰めてフロアに出れば、大きくとられた窓から差し込む日光が眩しくて思わず目を細めた。額に手をかざして視線を流せば、頬杖をついたまま振り向いて笑う蒼の瞳に行き当たった。
「こんにちは」
「調子はどう?」
「順調だよ。新しい分野に挑戦中」
椅子をひとつ空けて隣に座れば、読みかけだろう本の表紙をわざわざ示して笑いかけてくれる。もはや習慣化したやりとりだが、目に飛び込んできた本のタイトルに、ジョーは思わず相手の顔を凝視していた。
「もう有機化学は終わったの?」
つい先日まで基礎反応論の教科書を読んでいたと思ったら、今度は無機化学の中級テキストを抱えている。いくらなんでも、という思いとともに瞳を覗き込めば、相変わらずの笑みが返ってくる。
「面白くて、一気に進めちゃったんだ。一通り基礎をなぞっているだけだから、進度はけっこう速めだよ」
「ここの蔵書、レベル低くないわよ?」
「うん。でも、基礎から中級の教科書だし」
暇な時間を利用すれば、案外進めるのは難しくなかったと、少年はのたまう。
「さすがに、物理よりは進みが遅いけどね」
「十分な速さよ。呆れたわ」
「それ、褒め言葉だよね?」
「当たり前でしょ!」
きっぱりと言い切ったジョーに、少年、Jは、くすくすと笑いを噛み殺して「ありがとう」と告げてきた。
「今日のジョーさんの課題は?」
「宇宙航空力学のレポート。アウトラインはできているから、あとはまとめるだけ」
「頑張ってね」
「ありがと」
気を取り直して、持って来たモバイルノートを机上に広げると、Jはひと言励ましの言葉を送って自分の作業へと戻っていく。いつもの光景だ。
毎週金曜日の午後は、各国のレーサーはインターナショナルスクールで特別枠の語学研修授業を受けることになっている。第二回グランプリの開催にあたり、語学試験で一定以上の成績を叩いたごく一部の例外を除いて実施されている、語学面でのフォローアップの一環だった。
フォローアップの対象外となったごく少数のひとりであるJは、だから、毎週金曜日の午後は他の面々より先にインターナショナルスクールから宿舎へ戻り、雑多に積まれた事務作業をこなすのが常であった。
だが、それではあまりに味気なかろうと、編入試験に際しての好成績を考慮したFIMAとNASAが、太っ腹なところを見せつけるためか、宿舎の近所にある訓練センター付属の図書館への出入りを許可したのだ。土屋の勧めもあり、Jはそれ以後、金曜日の午後はインターナショナルスクールから図書館に直行し、頃合を見計らって宿舎に戻るという生活サイクルを確立していた。
頃合を見計らうというのはすなわち、近くのバス停から徒歩でやってくるチームメイトたちと待ち合わせるということである。その情報を聞きつけたジョーが、偶然を装ってちょうど空いていた金曜日に図書館でJと合流したのをきっかけに、毎週金曜日の奇妙な勉強会がスタートした。
もっとも、二人は別段特になにかを話し合ったりするわけではない。適当な時間まで互いの作業に没頭し、そのあと、図書館からしばらく行ったところにある公園でビクトリーズの面々がやってくるのを一緒に待つ。それだけだ。
他愛のない話をしたり、もっぱらJがジョーの恋の悩みを聞くだけの時間だが、そのささやかな時間こそがジョーにとっては恋煩いの相手に関する貴重な情報源であり、その後の帰宅時間は、余計なオプションがいろいろとついているものの、大切なデートの時間なのだ。無論、Jはそのことをわかっているし、烈や藤吉も承知の上。むしろ、恋愛方面にはまるで鈍いリョウのことをおもんぱかって、必死な少女の手助けをしたと思ってすらいる面々だ。だから、別に誰かがどうこう言うこともなく、その生活習慣は日常へと溶け込んでいた。
今日も今日とて同じサイクルが繰り返されるはずだったが、それは乱れたリズムを刻むジョーの手元のキーボードによって遮られた。まとめるだけといっていたわりに進みが遅く、途切れがちなキーを叩く音に、Jはちらりと視線を流す。気づかれないようにそっとうかがった隣の少女の横顔には、取り払えない暗雲が見てとれた。
「それ、締め切りいつ?」
「え?」
「だから、締め切り」
逡巡をはさみはしたものの、Jは結論を変えることはなかった。首をめぐらせただけの姿勢で唐突にそう問えば、ジョーは一瞬、わけがわからないといった様子で目を見開いた後、一週間後だと答える。
「じゃあ、今日はその辺にしよう」
「ちょ、ちょっと?」
しおりを挟んで自分の本をぱたりと閉じると、Jはそのまま、有無を言わせずジョーの手元に指を滑り込ませ、保存をかけてからさっさと終了の手順を踏んでいく。
「何かあったんでしょ?
話なら聞くから、お茶にでもしよう」
「何かって、私は何も――」
「手が止まってるし、ため息も多い。ボクには関係のない話かもしれないけど、溜め込むよりは吐き出す方がよっぽどいいよ」
慌てて遮ろうとしたジョーにきっぱりと言い切ると、Jはどうなのかと、小首を傾げてじっとその碧玉の瞳を覗き込んだ。
「……何でも見透かされているみたいで悔しいわ」
「勘はいい方なんだよ」
あっけらかんと笑い、諦めて荷物をまとめたジョーに、Jは荷物の運搬ぐらいならば請け負おうと手を差し出した。
「で?
何があったの?」
店に居座っても良かったが、案外混雑していたため、二人はそれぞれに飲み物を購入し、いつもの公園に一足早くやってきていた。もうじき冬になろうというこの季節は、公園の木々もすっかり葉を落としてしまっており、物寂しい感じが拭えない。しばらく黙って飲み物をすすっていたが、ジョーが一向に話を切り出さないのを見かね、Jがゆっくりと口を開く。
「勘違いするな、って言われたの」
「勘違い?」
話のはじまりは唐突過ぎて、Jには中身がまるで見えてこなかった。それでも、辛抱強く次の言葉を待ち、先を促しながらジョーの言葉をなぞる。
「憧れは恋心ではない。お前のやっていることは単なる勘違いによる空回りであり、よってそれは相手に迷惑なことですらある、だそうよ」
「一体、誰がそんなこと」
まるで他人事のようにあっさりと言ってのけたジョーに、Jは思わず息を詰めていた。初めての恋に悩み、四苦八苦しながら先に進もうとする少女に対して、あまりに残酷なセリフだと思ったのだ。
「教官。ほら、WGPって、テレビ中継されているじゃない?
だから、ある程度は内部情報が読めるみたい。しかも私たちは特別編成でカリキュラムを組んでもらっているから、その分、何があったか、とかの報告は事細かにいってるの」
そのことは、Jにも十分予測のできることだった。今大会のスタッフには、NASA絡みの人間も紛れていると聞く。あまり現場に出てくることはないそうだが、アストロレンジャーズのメンバーの監査を含めての処置だろうことは明白だった。だが、そのこととジョーの先ほどの説明との間には、まだ大きな隔たりがある。どういうことかと視線で続きを乞えば、ジョーは片頬を歪ませた複雑な笑みを浮かべて、大きく息を吸った。
「私ね、成績が落ちたの」
プラスチックのカップを握る手に過剰な力が加わったのか、ぺきりと、カップの歪む音がやけに大きく響く。
「誰も落ちてないのに、チームで私だけ、成績が落ちちゃったの。それ自体は別に大した変動でもないし、いままでだって、落ちたことがなかったわけじゃないわ。でもね、それはきっと、私がレースとカリキュラムのみに集中しないで、余計なことに気を回しているからだって」
「そんなこと――」
それは詭弁だ。ジョーがなにごとにも手を抜かずに全力投球している姿勢は、内部事情を細かく知らないJから見ても明らかだった。思わず反論をはさもうとしたところに、ジョーはひとつ首を振って言葉を継ぐ。
「リョウの名前が挙がったから、私も反論したわ。そうじゃない、それは違うって。私は目標を見失ったりなんかしていない。力を抜いた気もないし、気を抜いてもいない。事実、センターでも恋愛なんか日常茶飯事なのよ。なのに、私だけそんなことを言われるのはフェアじゃないわ」
「うん」
「そう言ったらね、私のやっていることは恋愛じゃなくて、ただ知らなかった世界への憧憬と現実との間でもがいているだけに過ぎないって、そう言われたの」
「それは、他人に指摘できる問題じゃないと思うけど」
「そうね。私もそう思ったわ。でも、言われているうちにわけがわからなくなって、混乱しちゃって。そのことをまだ引きずっていたみたい。それを、あなたに勘付かれた、と」
照れたような笑みを浮かべ、ジョーは前かがみになっていた背中をぐっと伸ばし、ベンチの背もたれに仰け反るような形で空をあおぐ。目線のみでジョーの動きを追っていたJは、かけるべき言葉を探して沈黙を守っていた。慰めでもなく、励ましでもなく。きっと必要なのは、第三者としての観察の視点。客観的に事実を述べたいと思うのに、状況整理が追いつかず、言葉は浮かばない。
しばらくぼんやりと空を眺めていたジョーは、その姿勢のまま、ゆっくりと口を開いた。
「あなたたちは、自由だわ。私も自由を持っているけれど、あなたたちはまた別の自由を持っている。それは、私が自分の夢を追いかけようと決めたときに、必然的に切り捨てられた自由なの」
「でも、それは君にとって、覚悟のできていたことだったはずだね」
唐突に再開されたのは、会話だ。答えを求められているだろうと判じ、Jは静かに応じる。己の判断を悔いるのはかまわないが、そこには自己憐憫の情があってはいけないと思うから。
「ええ、そうよ。でもね、知らなかったのよ。そんな自由があるっていう事実すらも」
「それは言い訳だ。気づいた時点で、君は選択できたはずだよ。自分の夢を目標として、誰よりも早く追い続ける今の自由か。子供であるがゆえに許された、夢のような現実の中で駆け回る、ボクらの持つ自由かを」
「そしていまの私は、どちらを選ぶことも切り捨てることもできずに、単に駄々をこねている子供。そう言われたの」
「その一点に関しては、ボクはその意見を言った人に反論する気になれない。君たちには、悩む時間はあっても迷う暇はないはずだからね」
あえて突き放すような言葉を選び、Jはジョーからの反応を待つ。
「その通りね。でも、わかっていても割り切れないの。そんな中途半端な状態にあるのは、チームの中で私だけ。だからちょっと、うまくバランスが取れなくて」
力ない声に、Jは眉根を寄せる。
迷う暇がない。自分で言っておいて、なんと残酷な言葉だろうと思う。それが彼らアストロレンジャーズの面々を含め、訓練センターにいる訓練生たちに当てはまる表現だということは知っているが、それでも、そこまで追い詰める必要もないではないか、と思うのだ。
悩んで、迷って、間違いながら正しい道を模索していく。それが、自分たちのような大人にも子供にもなりきれない、狭間の時間を生きる存在にふさわしい姿だとJは考える。切磋琢磨し、凌ぎを削りあって己の夢をがむしゃらに追いかけるジョーやブレットたちの姿勢は、いっそ高潔で憧れすらもする。だが、彼らは壁を知ったとき、一体どうするのだろうと心配にもなる。
ただ前進だけを強要された自分が、星馬兄弟という壁であり新しい世界の化身たる存在に出会ったときの衝撃を、Jは鮮やかに思い起こすことができる。はじめは理解不能だった彼らに、気づけば惹かれている自分を知っていた。その世界を知りたいと、自分も手に入れたいと。追いかけて追いすがって、そしてJはいまの位置に立っている。その事実すら、迷いと悩みの対象だった。
心のままに生きていけることが、どれほど重たく、そして自由なのか。理解し、受け入れるまでの過程は、決して穏やかだったとはいえない。
「わからなくなっちゃったの。リョウに対する感情が、恋愛感情なのか、憧憬なのか」
しばらくの間を置いて続けられたジョーの言葉に、Jはふと表情を緩める。
「感情は固定できるものじゃないよ。流動するんだ。こうである、という定義なんか、誰にもできない」
彼女は真面目な性格をしている。なにごともきちんと定義し、そしてそれを理解した上で前に進むことをよしとしているのだろう。だが、それだけで進むわけにはいかないものも、世の中にはたくさんある。
戸惑いを孕んだ声でのあいまいな返答に、Jはやわらかく言葉を紡ぐ。
「リョウくんのこと、好きなんでしょう?」
「ええ、好きよ」
間髪おかず響いた、しかし迷いを載せた声。Jは頷いてから先を続ける。
「ブレットくんやチームのみんなのことも、好きだよね?」
「もちろん」
今度は、迷いのない声だった。
「で、その二つの好きという感情は、同じもの?」
「ニュアンスが違うわ。ブレットたちは好きだけど、なんていうのかしら。友人よりは深くて、そうね。かけがえのない仲間だから。誰かひとり欠けるのも嫌よ」
「うん。それはわかるよ。たぶん、ボクがチームのみんなを好きな気持ちに似ているね」
Jの場合は、そこにさらに、彼らへの憧憬と終わりを知らない感謝が含まれる。新しい世界を見せてくれて、支えてくれる、大切な恩人たちでもあるから。
だが、それは言葉にしない。必要のないことであり、きちんと自分でわかっている。それで十分だと判断するからだ。
「リョウは…、わからないわ。ただ、どうしようもなく惹かれるの。いままで出会ったことのないタイプだったし。それに、とても強い人だわ」
「強い人に惹かれるのは、性別や年齢を越えての真理だと思うよ。出会ったことのないタイプだったらなおのこと、当然だろうね。そのことを、君はもしかして、最近自覚したんだ?」
「ええ、そう。教官に言われて、考えてみたの。そうしたら、そういう結論に至ったの」
それゆえに惑っているのだと告げたジョーの声は、力ない元のものへと戻っていた。
「それって、いま決めなくちゃ駄目かな?」
ふと思い立ったようなJの言葉に、ジョーは弾かれたように視線をめぐらせていた。その先には、二人の座るベンチの向こうにある噴水を見つめながら、静かにカップに口をつける横顔がある。
「いいんじゃないかな、中途半端で。だって、好きで、気になって、だから側にいようとするのは別に悪いことじゃないと思う。それがたとえ憧憬だったとしても、恋愛だったとしても、相手に恋焦がれるという意味では同じだよ」
小さく首をかしげることで相手と視線を絡ませ、Jは仄かに笑んでみせた。
「君たちの接点の一番のきっかけは、あのレースだよね?」
「ええ、そうね。女だから、って見下されたのが気に喰わなくて、でもリョウはそんなつもりがなくて」
意地を張ってかえって窮地に追い込まれたジョーを助けて、リョウは負傷した。そのことに後ろめたさを覚えてその次のレースでハンデを背負おうとすれば、それは傲慢だと文句を言われた。両チームにとって、今でも笑い話の格好のネタとなっている一戦だった。
「確かに、衝撃的な瞬間だと思うよ。ボクらでさえ呆気にとられたんだから」
思い出し笑いを浮かべながら、Jは苦味の滲む声で告げる。大慌てで、あの発言では相手の感情を逆撫でするだけだろうとやきもきしていたら、今度はジョーからの「ごめん」の三連呼。とりあえずは落ち着いたと思って胸を撫で下ろせば、ジョーからの熱いアプローチのスタートだったのだから、まさに転機というのにふさわしいレースだっただろう。
「だから、ジョーさんがリョウくんに惹き付けられたのは自然なことだったと思うし、その感情をうまく整理する時間がなかったのも事実だと思う。なら、そのままでいいんじゃないかな?きっと、時間が経てばどちらかに偏るよ」
あくまで楽観的にそう告げたJに、ジョーはしばしの思考をはさみ、小さく首を横に振る。
「それじゃあ遅いわ。だって、私は中途半端な自分を持て余しているのよ?
ちゃんとこの気持ちにケリをつけなくちゃ、って思っているのに」
「じゃあ、どうすればケリがつくと思う?」
相手の言葉を待ちかねていたかのように間髪おかず発された問いに、ジョーはわずかに目を見開く。そして、泣き笑いのような表情を浮かべてみせた。
「いままでの話は、全部誘導だったの?」
「そうとも限らないよ。ボクはボクの意見を述べさせてもらっただけだからね。ただ、君はきっとそう言うと思っていた」
「ずるいわ」
「なんとでも」
非難するような口ぶりだったが、その表情を見れば、いまの言葉が本心からのものでないことぐらいは察しがつく。あっさりとかわし、Jはおとなしく続きを待つ。
「あなたたちは、決勝が終わればすぐに帰国でしょう?」
「そうだね。きっと、みんな年越しはご家族と一緒の方がいいだろうし」
最終レースへの切符は手にしてある。あとは、残る消化試合をこなし、決勝へもつれ込んで、それで大会は終わりだ。
「その前に、けじめをつけようと思うわ」
すうっと息を吸い込み、ジョーは鮮やかに微笑んだ。悲壮さすら感じさせられる切迫した笑みだったが、それを、いい表情だとJは思う。だから、素直に思ったままの言葉を舌に乗せる。
「のろけでも泣き言でも、いくらでも聞くよ」
ただ、悔いのないように。
どちらに転ぶにせよ、この大会が終われば、そうそう簡単には会えなくなるのだ。アストロレンジャーズは今大会を機にメンバーを総入れ替えするし、ビクトリーズも、年長二人であるリョウとJは、今大会をもっての引退を決定している。物理的にも時間的にも絶対的な距離が築かれるなら、その前に、少しでも整理できるものはしてしまうほうがいい。
「本当にずるいわね、あなたは」
「今度のは心外だな。どうして?」
虚を突かれたように瞬いたてからジョーが喉から搾り出すようにして発した声に、Jは眉を寄せる。先ほどの問答には確かに思惑が絡んでいたが、いまの発言は、本心からの気遣いだったというのに。
「そのやさしさは、残酷だと思う。きっと、損するタイプよ」
「貧乏くじなら引きなれてるよ」
そう、たとえば、友人のための恋愛相談を引き受けて、その相手に失恋するように。
込み上げてきた思いは音にせず、そっと胸の奥にしまいこむ。そしてJは、あいまいな笑みをもって相手の追及をはぐらかす。
「ああ、みんなが来たね」
もうこんな時間なんだ、と微笑み、Jは元気に駆け寄ってくるチームのエースに応えるべく、ベンチから腰を浮かす。
「Jay.」
「ん?」
立ち上がって手を振れば、豪はますます速度を上げてきた。その後ろには、のんびりと呆れた様子で歩いてくるチームメイトたちがいる。微笑ましく思いながら待つJの背後から、やさしくかけられる声がある。
「Thanks.」
振り向いた先には、かけねなしの笑顔があった。思わず言葉を忘れて見つめれば、ジョーは照れたように微笑んでから同じように立ち上がる。
「私ね、自分ですらわかっていない自分の内心を、誰かに決め付けられるのが怖かったの。だから、嬉しかったわ。ありがとう」
「どういたしまして。力になれたなら、ボクも嬉しいよ」
ひとつ息を吸い込んでから、Jも精一杯の笑みを返す。と、そこに飛び込んできた、青い影。
「あー?
何の話だ?」
「なんでもないよ、豪くん。もうすぐ決勝だから、お互い頑張ろうねって」
無邪気な笑顔に、Jはゆるりと首を巡らせてから淡く笑む。
「そんなの、おれたちが優勝いただくに決まってんだろ!」
「あら、そうとも限らないわよ。私たちだって、決勝に向けての調整は順調なんだから」
「聞き捨てならないな、そのセリフ。ボクらももっと頑張らなきゃ」
「はっ、心配すんなよ、J!
おれさまがカッ飛びのブッちぎりで、優勝はいただきだぜ!」
「へえ、お前がカッ飛んでブッちぎって、それでコースアウトってか?それは楽しみだな」
さらりと変えた話題に喰いついてきた豪を、ジョーと二人で軽くいなしていれば、ちょうど追いついてきた烈からの痛烈な一言が入る。ぐっと言葉に詰まった豪に、集まった面子でなんとなく笑いあい、彼らは宿舎に向かって歩き始める。
恋愛か憧憬かと悩んでいた少女と、おそらくは保護者意識が一番大きな割合を占めているだろう少年と。二人が並ぶように気遣うのはいつものことで、この手の感情に鈍い豪ですら、その動きには素直に協力してくれる。二郎丸と藤吉と、三人でふざけあいながら先を行く年少組を見ながら、Jは小さくこぼれるため息を禁じえない。
「Jくん?
どうかしたの?」
「なんでもないよ。――進展ないなあ、と思って」
少し離れて歩く後ろの二人をちらりと視線で示せば、烈は同調して微苦笑をこぼす。
「そうだね。もうすぐグランプリも終わっちゃうのに」
「日本に戻ったら、お互いに会える時間もなくなっちゃうしね」
早く、早く、と。Jは時間が進むことを祈る。
きっとそう、これは憧憬だから。迷うことなくまっすぐに走る彼らがあまりに眩しくて、きっと、烈や豪たちに惹かれたのと同じ感情を、彼女にも向けていただけ。だから、離れればその感情は治まるはずだから。
早く、この地を離れる時間が来ればいい。そうすればきっと、持て余すことしかできないこの感情は鎮まって、いつもの自分に戻るはず。
手助けをしたくて、まだるっこしくて見ていられなくて。思わず手を差し伸べれば、ミイラ取りはあっさりとミイラにつかまった。鮮やかな強さに魅せられ、儚い脆さに惹かれた。奪い去ることができれば、どれほど良かっただろう。そうすることで、彼女の心が手に入れば、どれほど嬉しかっただろう。
「本当に、損するタイプなのかもしれない」
「え?
何か言った?」
「寒いなあって言ったんだ」
告げられた言葉をなぞり、刻んだ自嘲の笑みは一瞬よりも短い時間でかき消して、いつもの笑顔を取り繕う。
「そういえば、来週辺り雪が降るかもしれないって言ってたしね」
「降ったら、去年の決勝と同じようなことになるのかな」
あっさり応じてくれた烈と他愛のない会話に興じながらも、全身で彼女の気配を追っている。ちらと振り向いては幸せそうに笑む姿を見て、自分まで幸せになってしまうのだからどうしようもない。ならば、その幸せが最高になる道を願おうと思う。
「あまり、無理しないでね?」
唐突に降ってきた言葉に、Jは驚きをもって声の主を見つめていた。視線の先、鮮やかな朱色の瞳が、小さく困ったように微笑んでいる。
「Jくんやさしいから。見ててこっちが心配になるよ」
「……大丈夫だよ」
もしかしなくてもばれているのかもしれないと思うと、申し訳なさにいたたまれなくなる。勝手に手出しをして、それで罠に捕らえられたのだから、これは自業自得。それをリーダーに心配させるのなら、チームの参謀役としては失格だ。
謝罪と謝礼の言葉を添えて告げれば、烈は静かに笑って視線を弟たちへと戻した。
結局、帰国前にジョーからJがのろけを聞くことはなかった。
振られちゃった、とあっさり笑って告げられたのは、帰国日の空港ロビーでのことだ。
半ば予想していたことだし、きっとこれでよかった。憧憬と恋愛の狭間でもう少しだけあなたたちを羨みながら、先に進んでみる。リベンジは後輩に任せるわ、と。笑う彼女は、なにかを吹っ切ったかのように明るくて、以前よりも強さを増しているように見えた。
「納得したの?」
「ええ、なんとなくわかった気がするの。教官に言われたことの意味も、あなたに言われたことの意味も、ね」
「ボクの言ったこと?」
特別なことを言った自覚のなかったJが首を傾げれば、ジョーはおかしそうにくつくつと、声を殺して笑う。
「君はそう言うと思っていた。あなたは、そう言ったわ」
「うん、そうだね?」
「それって、私が自分の気持ちが恋愛じゃないってことを自覚しているって、気づいていての言葉だったんでしょう?」
「そこまでは言わないよ。悩んでいるんだなあ、ってことには気づけたけど」
買いかぶりだと、Jは淡く苦笑を送る。
「リョウにも言われたわ。私がリョウを見ている視線は、Jがゴウを見ている視線に似ているって」
「ああ、そうかもね。なんていうのかな。ボクにとって、豪くんは新しい世界の象徴だから」
「私にとっても、同じだったのかもしれない。リョウはいまでももちろん大好きよ。でも、それは恋愛じゃなくて、自分にないものを持っている存在を大切にしたいとか、そういう意味合いが強かったのかもしれないわ」
「そうやって自分で納得できたなら、もう立ち止まっちゃ駄目だよ?言ったよね、君たちには、悩む時間はあっても迷う暇はないって」
淡い笑みを消し、真剣な光を湛えた瞳で見詰めれば、ジョーもまた神妙な表情で頷く。
「ええ、わかっている。あなたも、ありがとう。ずっと付き合ってくれて」
「どういたしまして。――ああ、二郎丸くんがこっち見てる。話したいんじゃない?」
「ホントだ。じゃあね」
「うん」
するりと踵を返していった後ろ姿を見送り、小さく笑みを浮かべていたJは、唐突に背後からかけられた声に、思わず肩を大きく揺らしていた。
慌てて振り返れば、そこには珍しくトレードマークであるバイザーを外した、彼女のチームのクールなリーダーが立っている。
「で、お前はどうなんだ?」
「どうって?」
「まさか、ここまできて白を切る気か?
お前、ジョーのこと――」
どこから聞いていたのか、事情を把握していそうな声をひそめての続きに、Jは、ああ、と眉尻を下げた笑みを浮かべる。
「ボクの感情は、憧憬と保護者意識だよ。夢をまっすぐに追いかける君たちには、迷いがないようですごく憧れたし、心を持て余しているジョーさんは、なんだか放っておけなかった。それだけのこと」
情けない響きだとの自覚はあったが、どうしようもないことに足掻くのはもうやめたのだ。だから、心を映す声音をそのまま、気遣いに満ちた瞳を、Jはたおやかな表情で見つめ返す。そういえば、彼がガラスを介さずにその表情を見せてくれるのは、とても珍しいことだった。
「心配してくれていたんだ?」
からかうような笑みを浮かべてちらりと上目遣いに覗き込めば、青の瞳は不機嫌そうに歪められる。その瞳が弾くのは、彼らが飛び越えることを願って見上げる青空の色。
「これ以上ことがこじれてややこしくなるようなら、事態収拾のために口出しをする気でいただけだ」
ため息交じりに返された言葉は、どこかに言い訳めいた色合いが滲んでいた。
アストロレンジャーズの紅一点は、どうやら誰からも愛される性格をしているらしい。見守る目がこんなに身近にあったのなら、手出しは不要だったのかもしれない。いまさらながら自分のおせっかいな性格を再認識させられた気がして、Jは苦笑を深めて小さく息を逃がした。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。ボクは君たちの夢を追いかける邪魔をすることをこそ、最も忌避するからね」
夢を目標として据え、それに向かって邁進するひたむきな姿に惹かれた。しなやかな強さの裏で鮮やかに踊る、感情の波に魅せられた。彼女のすべてに囚われればこそ、彼女を損なうような行動は許されざるもの。他者を制限することができないならせめて、自分だけはと厳しく律することを決め、そっと支えることでささやかな満足を得ることにした。
それは、どれほど綺麗な言葉で飾りつけようとも、自己満足に満ちた身勝手な行為だ。そんな思惑に気づくことなく、素直な笑顔を向け、礼を述べてすらくれた彼女のためにも、これ以上の手出しはもうしない。惑いに満ちたこの思いを彼女に勘付かせることは、彼女の足枷になりかねないことを、誰よりもよく、この一年で学んだから。
「君たちの夢が一日も早く実現することを、強く祈っているよ」
「期待に応えられるよう、努力しよう」
にこりと笑んで右手を差し出せば、ブレットはひとつ瞬いて、それから素直に握手に応じて力強く頷いた。
「元気でな」
「ありがとう。君たちこそ、元気でね」
やわらかな声に頷けば、そろそろ時間だと告げる土屋の声がロビーに響く。
ホスト国チームとして全員で見送りに来ていてくれたアストロレンジャーズのメンバーと慌ただしく改めての別れを告げあい、Jはチームメイトと共に、海の向こうへと飛び立った。最後にリョウと二郎丸に別れを告げていたジョーの笑顔が、それまでに見た中でも極上の、やさしくてやわらかなものだったことが、ほんの少しだけ、救いのような気がした。
fin.