人の心の内など、読むことはできない。
凡人から凡人の心の内が読めないのだから、天才の心の内はもってのほかだ。
「だから、思い悩むだけ無駄だといっているだろう?エーリッヒ」
「ですが、気になりませんか?」
「気になるといえばなるが、所詮われわれは凡人だ」
そもそも、平民庶民の思惑をはるかに突破した次元にいる貴族の頭の中身は、いつだって謎に満ちている。読もうとしてはいけない。そこには、果てしない徒労と肩透かしと、よくわからないけれども嵌められたという気持ちしか残らない。
庶民と貴族との出会い、それは未知との遭遇。そこに天才というオプションが加われば、彼らの中身はワンダーランド。その辺をしっかりわきまえたうえでないなら、彼らのリーダーとお付き合いをしようなどと思ってはいけないのだ。
「だいたいお前、どれだけリーダーと付き合っている? いい加減わかれ。あの人は、われわれには計り知れない未知の存在なんだ」
「ですが、きっとわかりあうことはできます。理解ができなければ、相手を正しく知ることもできません」
正しく知ることができなければ扱いを過つこともあり、そんなことになればミハエルが著しく機嫌を損ねるのは火を見るより明らかであり。
「だが、わからないのだから仕方ないだろう? いいじゃないか。流れに身を任せれば」
「流れに身を任せて、ことが悪化していくのを静観していろと? 面倒ごとが勃発してからでは遅いのです。あなた方は逃げて、私は八つ当たりを受けます!」
永遠の被害者、エーリッヒの言葉は重い。どこか責めるような色合いを含んだ視線はしれっと受け流し、シュミットは素知らぬふりだ。そういえば、とエーリッヒは内心でため息をこぼす。シュミットもまた、凡人とは一線を画する世界に住む、お貴族サマの一人だった。
「ああ、私の苦労を理解し、分かち合ってくださる天使のような方はいらっしゃらないでしょうか」
「ボクの笑顔じゃ癒されないの?」
思わず十字を切りながら呟いたエーリッヒは、視界を突如覆い尽くした深い翡翠色の瞳に、ざっと退く。
目の前のソファに座り込んで、なにやら真剣に作業に取り組んでいたらしい話題の相手が、目の前に顔を寄せていたのだ。
「二人とも、人の真後ろでそんな失礼なことをべらべら喋ってて、ボクに聞こえていないとでも思ったわけ?」
「いえ、別に。ただ、聞こえてもまったく気にも留めないと思っただけです」
「ひっどーい!」
口調こそ丁寧なものの、シュミットの言動には遠慮も容赦も微塵もない。いまだ心臓がドキドキいうのを押さえきれないエーリッヒの胃に、更なる負荷がかかる。
――今日はもう、胃薬は飲んでしまったのに。
使用上の注意と、用法、用量を正しく守っての服用がエーリッヒのモットーだが、最近では蹴破りたい衝動に駆られることも少なくない。胃腸の年齢だけなら、きっと正体不明の名誉会長に軽く勝つことができるだろう。もっとも、相手が悪すぎるだろうが。
けっこうな言われようなのに、それこそシュミットの指摘どおり、まったく意に介した様子のないミハエルは一通り拗ねたふりを終えると、「それで」と軽やかにそれまでの話題を吹き飛ばす。
「いったい何をこそこそ話してるの?」
「それはこちらのセリフです。いったい何をしているんです?」
ちょこんと小首を傾げたその様は、愛くるしくてまるで天使のようだ。だが、その光の出所が、実は地獄へ続く扉かもしれないことを忘れた瞬間、痛い目に合うことは二人とも重々承知である。疑問に疑問を返せば、ミハエルはぱっと瞳を輝かせ、机の上から作業途中だろう色画用紙を取り上げる。
「あのね、あのね。今度、FIMA主催のクリスマスパーティーがあるよね」
「ええ……」
唐突なイベントの通達は先週すでに受けている。だが、それと目の前の作業とが結びつかない。相槌を打ちながら先を促すエーリッヒは、思案顔だ。
「それで、ボクらだけが楽しいんじゃ不公平だから、ファンのみんなに抽選でプレゼントをあげることになったんだって」
ひらりと一枚の紙を示され、シュミットとエーリッヒは視線をざっと紙面に走らせる。確かに、そこには追加で回されたのだろう伝達事項が羅列してあり、各チームから三品、ファン感謝用のプレゼントを提供せよとある。基本的に伝達事項を一括して請け負っているエーリッヒが、自分に見覚えがないのはなぜかと首をかしげれば、今日付けで先ほど回ってきたばかりだと横合いから指摘される。
「でね、どうせプレゼントをチームから出すんなら、それなりにチームの特色を活かして、なおかつみんなに喜んでもらえるものがいいと思ったんだ」
「それはまあ、確かに」
「いいお考えだと思いますよ」
至極まっとうな意見が返ってきたため、若干面食らいながら、シュミット、エーリッヒの両名は頷く。自分の意見を認めてもらえたことに満足したのか、ミハエルはますます笑みを深めながら続ける。
「そう思うよね! だから、Jくんから写真を買ってきたの!」
「はっ!?」
「なんですって!?」
完璧なまでの造形美を誇る唇から零れ落ちたのは、あまりにもとんでもない一言だった。
この上なく楽しげに見せられたのは、本人たちにとって「なぜ」と首をかしげざるをえない場面のワンショットばかり。
「こっちがエーリッヒシリーズで、こっちがシュミットね。で、これで二品」
せっせと工作をしていた色画用紙は、各写真に対する台紙と解説用らしい。本当はもっときちんとしたものがよかったのだが、注文するには時間がないので、それならいっそと自作することにしたのだそうだ。
「あとの一品は?」
ビクトリーズの正体不明なメカニックが、怪しげな写真コレクションを保持しているのは有名な話だった。目的に応じて依頼すれば秘蔵ショットをいくらでも提供してくれるし、事実、エーリッヒもシュミットも、利用した経験はある。ただし、自分たちが被写体に回されるという可能性への考慮をすっかり失念していたのだ。
だが、こんなところで力尽きてはいけない。ミハエルは、おいしいものはあとにとっておくタイプだ。三品のうち二品を先に明かしたということは、もう一品はもっととんでもないものである可能性が高い。キリキリ痛む胃にもはや顔をあげていられないエーリッヒの救済など捨て置き、シュミットはチームリーダーにすがるような視線を向ける。
これ以上にとんでもないものはないと信じたい。雄弁に語るアメジストの瞳は、しかし、きらきらと楽しげな悪魔の微笑を湛える翡翠の瞳の前に玉砕する。
「あとはね、これ!」
「これ? 中身は?」
得意げにみせられたのは、机の下においてあった、サンタのお約束アイテム、プレゼント袋。
「エーリッヒとシュミットの部屋から持ってきたの」
よいしょ、と年寄りくさいかけ声で袋を手繰り寄せ、ミハエルは中身を机の上に並べていく。
「愛用のペンでしょ、お気に入りのジャケットでしょ」
「え?」
「あとはユニフォームと」
「待ってください!」
「日記!」
「リーダーッ!?」
次々と取り出されるその品々は、徐々に重要度を増していく。ユニフォームをツインで提供されても、先日取り替えたばかりなのだからスペアがない。そしてとどめの一言に、エーリッヒが悲鳴を上げて崩れ落ちる。
「待ってください、リーダー。それはちょっと、考え直したほうがいいかと思います」
「えーっ、どうして? なにか問題でもあるの?」
不満げにぷくっと頬を膨らませて、上目遣いに見つめて瞳を潤ませる。
ミハエル必殺の、泣き落とし寸前の表情だ。これをされると、大概の人間は落ちる。たとえ演技だとわかっていても、その内容がどんなにとんでもなくても、なぜか気づけば落とされて、ミハエルの思うとおりにことが進んでいる。
が、しかし。今回はここで負けるわけにはいかない。いつもなら負けて、あとはエーリッヒにすべてを押し付ければいい。けれども、今回は絶対に自分のところまで余波が及ぶ。それだけは困る。
エーリッヒの日記帳は、門外不出の禁断の書。シュミットも具体的に中身を見たことはないが、それが日の目を見た暁には、何が起こるかわからない。
厳重に隠しておいたはずのそれを知らぬ間に盗み出されたことによほど打ちひしがれたのか、中身を見られただろうことに絶望しているのか。現実からさくっと逃避してしまったエーリッヒの処置はあとに回し、シュミットは決死の交渉を決意する。
なぜ、よりにもよってこんなとんでもサンタのもとに、プレゼント選択の話が真っ先に伝わったのか。そもそものきっかけを恨まないこともないが、まずは目前の問題に対処することが先決だ。
天才の手の内も胸のうちも、すべては謎に満ちている。
謎は謎のまま、それは神秘が残っていて別にかまわないが、できることならその相手はすべて他人にお願いし、自分は被害の及ばないところで鑑賞するにとどめたい。
「だって、ボクは君たちにとって、計り知れないんだろう?」
だから、このぐらいいいだろうと言い募る天才。
「ですが、正しく互いを理解しあい、尊重しあった関係は重要です」
せめて、自分の非常識っぷりを自覚し、歩み寄ってくれと乞う非庶民。
先走るサンタをなんとか言いくるめてプレゼントのすり替えを諮るべく、いつもならみんなの庶民、エーリッヒに面倒ごとのすべてを押し付けることに成功しているシュミットの、戦いのゴングが鳴り響く。
サンタの暴走を食い止めるべく働く小人さんたちと、暴走の余波の及ばないところで見守るトナカイたち。
結末は遠からず、聖なる神の子の誕生日、聖ニコラウスの記念日に。