暖冬だと叫び続けた気象情報が、唐突に急激な寒さを予報しはじめたと思ったら雪が降った。毎年のごとく、降るだけ降るものの、ろくに積もりもせずすぐに融けるだろうと思っていた。そうしたら、意外と積もった。
おかげで、ホワイトクリスマスである。
「何も、欲しいものなんてありません」
なかば予想していた答だっただけに、土屋はその言葉を聞いたとき、やっぱり、と得心すると同時に寂しさを覚えた。
「遠慮はしない約束だよ?なんでもいいから」
「でも、本当に何もないんです」
クリスマスといえば、子供たちの年中行事の中で、誕生日、正月に並ぶ三大イベントといっても過言ではないだろう。ご馳走を食べて、プレゼントやら特別収入やらを堂々と得られる。まさに子供ならではの特典がいっぱいに詰まった日なのだから。だというのに、目の前のこの子供は、まったくそういった気配をみせない。
誕生日を祝われてきょとんと目を見開き、もうすぐクリスマスだからとプレゼントの希望を問えばひたすらに、困ったような表情で「欲しいものなどない」と繰り返す。
この子は、実に頭がいい。
常日頃から子供らしからぬ遠慮と深読みを駆使して自分に相対しているのはわかっていた。それでも、ことあるごとに子供が口にするセリフはあまりにも大人びていて、告げる声があまりにも優しくて、聞くたびに土屋は悲しくなる。
これ以上何を望む必要があろうか。自分は十二分なほどに恵まれている。
そのセリフを口にしなくてはという必要性をどこからか感じているのなら、そう思わせる自分が不甲斐なくて悲しかった。そのセリフが本心からのものならば、子供の無欲さが悲しかった。もっとたくさん、もっといろいろ。そう望むことをどこかに捨ててしまった子供が悲しくて、言いようのない不安に駆られた。
彼の無欲さが、物欲に対してのみ当てはまるのならまだいい。だが、それがいつしか、領域を広げないと誰に言い切れるだろう。得うる人間関係に、向けられうる思いに、己に対する愛情に。それらにまで無欲さが発揮されかねないと、土屋を危惧させるだけの昏さを、Jは時に垣間見せる。
内心の不安と焦りが、表情にでも出ていたのだろう。それじゃあ、という逡巡を含む声に、土屋ははっと我に返った。
「ひとつだけ、わがままを聞いてください」
「なんでもいいよ」
小首を傾げて眉根をわずかに寄せた、はにかむような微笑みと共に、Jは本当にささやかな願いを口にした。
浮き足立つ世間とは裏腹に、土屋は沈む心を抱えてタクシーに揺られていた。昨夜はまた雪が降ったようだが、今夜は綺麗に晴れ渡り、星明りが夜空にきらめいている。
脇に置いてあるのは、歳末の忙しさを象徴する書類が満載のかばん。深夜料金のメーターを見ていてもむなしくなるだけだから、土屋は過ぎ行く窓の外の景色を見やる。
急な会議の知らせを受けたのは昨晩のこと。よりにもよってこの日になった理由が自分の師だと知っては文句をつけることもできず、すべての計画はまず出だしからして躓いた。
月のかかる位置からもう結構な時刻であることを悟り、土屋は腕時計に目をやることを躊躇する。
――クリスマスの一日を、一緒に過ごさせてください。
Jからなんとかして聞き出したクリスマスプレゼントの希望は、ただのんびりと一日を共に過ごすことだった。話題のゲーム機だとか、おもちゃだとか、彼と同年代の子供が欲しがりそうなものは山のようにあるのに。Jはただ、そう願った。
まるで、大人が小さな子供に欲しいものを問われて答えるときのようなセリフだった。
違う、自分はそんなことを聞きたいのではない。それはわがままなどではない。
口から滑り落ちかけた言葉を押しとどめて、土屋はただ頷いた。スタートにしては、きっと上出来だ。自我を押し込め、自らの望みなど口にしない子供に、わがままという単語まで使わせることができた。ここからはじめて、ゆっくり視野を広げてもらえればいい。
そう思ったのに、さっそく約束を破ることになってしまった。しかも自分から。
(何をやっているんだ、私は)
思ったよりも会議は長引き、料金メーターの横に取り付けてあるデジタル時計は、一日の終わりまで残り三十分を切っていることを教えてくれた。
食事の心配はないだろう。遅くなるかもしれないと告げた今朝は、夕食は自分が用意しよう、と申し出てくれたぐらいだ。ケーキは注文してあるから、夕刻、取りにいってくれることになった。
そういえば、種類を決める際に何がいいかと問えば、しばし悩んでからブッシュ・ド・ノエルがいいと笑っていた。Jの食物の好みを聞いたのは初めてだったと、店のショウウィンドウの前に立ってからようやく気づいた自分が、情けなかったのまで鮮明に思い出される。
何度目かも忘れた会議の休憩が九時を過ぎていた時点で、先に食事をすませて寝てしまうようにとの連絡は入れてある。
約束を守れなくてすまないと言えば、仕事なんだからしょうがないと、物分りの良すぎる穏やかな声が返ってきた。いっそがっかりした声音を聞かせてもらえた方が、不甲斐ないけれども嬉しかったと思うのはわがままだろうか。
結局、かぼちゃの馬車が元に戻る前の帰宅は叶わなかった。
重いため息を添えて料金を支払い、土屋は研究所の前に降り立つ。建物は暗く、戸締りもしっかりとしてあった。Jのきちんとした性格を誇らしく思う反面、申し訳なさと不甲斐なさにキリキリと締めつけられながら、裏に回って居住棟の鍵を回す。
扉を開ければ、中から光が漏れ出してきた。
なんとなく、連絡を入れた時間に素直には寝ていないだろうということは予想がついていた。うぬぼれかもしれないが、やさしい彼はきっと、自分の帰宅を待っていてくれるだろうと思った。だが、この時間である。
さすがにもう夢の中だろうと思ったのに、もしや、まだ起きているのだろうか。
足早に廊下を進み、光源であるリビングを覗く。Jの姿はしかし、そこには見当たらない。
「おかえりなさい」
Jの私室の窓から漏れる明かりはなかったはずだと首をかしげれば、部屋の奥のキッチンから探し人が顔をみせた。
「ちょうど、温め終わったところなんですよ。コート、脱いでいらしてください」
「温め終わったって……」
「もうだいぶいじったから、ちょっとまずくなっちゃってるかもしれませんけど」
自室に戻るのももどかしく、土屋はソファにコートを預けて、せっせと作業に勤しむJを見やる。パジャマにカーディガンを羽織り、その上からエプロンをかけた彼によって次々と食卓に運ばれる皿は、二枚ずつ。
「もしかして、まだ食べていないのかい?」
「一緒に、と言い出したのはボクです」
「だって、もうこんな時間だよ」
魔法の時間は終わっている。クリスマスは、過ぎ去ってしまった。
呆然と突っ立ってただ成り行きを見守ることしかできない土屋の目の前で、Jは最後のスープ皿を食卓に置いてゆるりと双眸を眇めた。
「でも、帰ってきてくださいました」
声はこの上なくやさしいのに、うつむいたその顔に浮かんでいたのは、痛みに耐えるような表情だった。
深呼吸をして、それからまぶしいぐらいの微笑みを湛えて顔をあげて。
子供は言葉を紡ぐ。
「いなくならないで、消えないで。ちゃんと、ボクのわがままを聞いて、帰ってきてくださいました」
土屋は、自分よりも断然短い時間しか生きていない目の前の子供が、自分よりも断然たくさんの、深い悲しみを背負っていることを知っていた。だから、単語の向こうにある彼の思いに、視界が歪むのをこらえ切れなかった。
腕の中から戸惑うように呼びかける声を聞いて、土屋は自分が腕の中にJを抱き込んでいることを初めて自覚する。
もっとも、彼を放すことなどできなかった。
ぼやける視界は瞼の向こうに追いやり、土屋はただ、声を殺して泣いた。
子供の細い体躯を強く抱きしめ、鮮やかな髪に顔をうずめて。土屋は、ただただ涙をこぼした。
「来年は、ちゃんと一緒に過ごそう」
「はい」
掠れた声を必死に取り繕いながら告げれば、腕の中の彼はやさしく頷き、そっと肩から力を抜いた。
望まれなくとも、願われなくとも。
彼のすべてから、どんなに小さな思いも掬い取ろうと思った。
この子に、自分が与えることを許されるものはすべて与えようと思った。
終わりを告げた聖なる日に、二人だけのクリスマスに、永久に変わらぬ誓いをたてた。
終わらない時間はないのだと、魔法使いのおばあさんは知っていた。
でも、そこから新しい時間をはじめることが出来るとも、おばあさんは知っていた。
二つの時間をいっぱいに抱えて、必死になって顔を上げる子供に、愛しさのあふれ出した聖夜の翌日。
サンドリヨン --- シンデレラ。仏語。
ノエル --- クリスマス。仏語。