仕事の区切りは年度の初めと終わりできちんとつけるくせに、年末というのはどうしてこうも終止符を求められるのか。出入りの業者が正月休みに入るという連絡を持ってくる。それにあわせて在庫の発注具合を変える。中間報告をまとめて母体の企業へ挨拶回り。ついでに出資者のところにも連れ回されて、飲みたくもないのに酒盛りに付き合わされる。それだけかと思えばクリスマスと正月の商戦の企画を立てるようにと要求される。
それこそ文字通り、目の回るような忙しさだった。クリスマスと前後するように、年内最後の大規模レースが待っているというのに、運営委員会は更に厄介ごとを匂わせてくれた。これ以上は許容量を軽く突破すると訴えたところで、委員会のトップを考えるに、きっと聞き入れてはもらえない。
なんだかんだと言い訳をして委員会主催の宴会を途中退席しただけでぐったりと疲れ切って、思わず最寄り駅からはタクシーを使ってしまった。
研究所に戻った頃には、既に周囲の家々はひっそりと静まり返っており、玄関やら窓やらに光るクリスマスのイルミネーションだけがきらきらと存在を主張していた。
「あー、みんなお疲れさま」
しかし、所内はまた別次元だ。実験にせよ書類にせよ、最後の追い込みにかかる面子が少なくない。いつにない残業率を誇る研究員たちが、一様に疲れきった表情で、書斎の入り口に姿を現した土屋を労った。
「早かったですね」
部屋の最奥、自分専用の机になんとか辿り着いた土屋に、すかさず湯気の立つ紙コップが差し出される。修羅場に突入するたびに研究所内のどこかから持ち出されてくる、コーヒーポットの恩恵だ。「インスタントですけど」とどこか申し訳なさそうに付け加えられ、土屋はしみじみと首を振った。あたたかく、アルコールが入っておらず、目を覚ましてくれる飲み物。それだけで、今の土屋には十分すぎるありがたさだ。
「今日は珍しく、鉄心先生に絡まれなかったからね」
ふうふうと息を吹きかけ、一口含んで溜め息をこぼす。ほんのりと体の中心が温まると、それだけで幸せになった気がするのだからお手軽なものだ。
「なるほど、それは珍しいですね」
「ありがたいけど、何か裏がありそうな気がするから怖いよ」
心底納得した風情の相槌には、ぐったりと背もたれに体重を預けながら弱気な本音をぽつり。聞くとなしに会話を耳にしていたらしい部屋の面々から苦笑を誘って、土屋もまた、諦めの混じった溜め息を吐き出した。
今日は朝も早くから研究所を空けていたため、日付がもうすぐ変わるような時刻ではあるものの、まだ休むわけにはいかない。机に備え付けのパソコンを立ち上げ、メーラーを呼び出す。案の定、たった一日で山と詰まれた未読メールに、土屋は軽く眩暈を覚えた。
「そうだ、博士。これ、Jくんが差し入れに」
送信者を流し見て、急ぎのものからまずは着手しようとマウスを滑らせていた手は、思い出したような研究員の声に静止する。言いながら示されたのは、土屋の机の端にちょこんと乗せられていた小皿だった。かわいらしい、いかにも手作りといった風情のクッキーが三つ載せられている。さりげない気遣いに思わず目を細めながら、土屋は重い溜め息をつく。そういえば、この一週間ほど、あまりの忙しさに、子供とまっとうに会話をしていない気がする。
「僕らも貰ったんですよ。なんだか学校で色々貰ったらしくて、お裾分けに、って」
「学校で? 何かイベントでもあったのかな?」
勧められるままありがたく口にして、土屋は軽く首を傾げた。同類の差し入れには覚えがある。ハロウィンのときにも、同じような理由で同じようにクッキーを分けてもらった。だが、クリスマスにはまだ早いというのに。
焦げ茶色のクッキーは、甘さを抑えたコーヒー味だった。租借しながらなにげなくディスプレイに視線を戻し、受信日時を改めて意識した土屋は動きを止める。
なるほど、今日に限って鉄心に絡まれないわけだ。今日は、一刻も早く帰らなくてはならなかったのに。
「博士?」
唐突な表情の暗転に、いぶかしげな声をかける研究員たちには微塵の反応も示さず、土屋は己の迂闊さを呪い、思わず両手で頭を抱えていた。
仕方ない、とか、きっとわかってくれる、とか、そんなことは改めて言われなくとも、土屋が一番よくわかっていた。きっとあの子は土屋の事情をわかってくれるし、何も言わないに決まっている。だからこそ絶対に忘れてはいけないと思っていたし、少なくとも昨夜まではきちんと憶えていたのに。
暗澹たる気持ちを抱えて、薄暗い廊下で溜め息をひとつ。それから、土屋はそっと目の前の扉を押し開けた。
こだわりがあるのか、Jはカーテンを開けたまま眠る。夕方になるとカーテンを閉めるくせに、寝る段になってわざわざ開けているらしい。窓から差し込む月明かりに薄蒼く照らされた室内で、シーツの山が規則正しく上下している。
「すまないね、本当に」
朝は多分、挨拶を交わすゆとりぐらいはあったはずだ。急ぎの、しかも遠出の用だったから、いつもと違って見送りはできなかった。代わりに見送ってもらって、バタバタと出かけたのは記憶にある。
半徹夜明けで思わず寝坊をしてしまったとか、本当に忙しかったとか、そんな言い訳に意味はない。どんなに疲れていても、たった一言「おめでとう」という時間を捻り出して、せっかく準備しておいたプレゼントを渡す機会を作らなくてはならなかったのに。
寝相のいい子供は、横を向いてくるりと丸まって眠っていた。シーツも乱れていないし、変に触れたら起こしてしまう気もしたけれど、ほんの少しだけはみ出していた肩にきちんと掛け布を被せてやり、ぽんぽんと叩く。
「明日、改めて君に言うけど、でも、今日中にどうしても祝わせてくれ」
起こしてしまわないように小声で囁けば、むにゃむにゃと子供は口を動かし、一層小さく丸まった。姿勢をほんの少し変えて、すうっと息を吐き出して。可愛いなあ、という気持ちと、本当に申し訳なくて情けない気持ちが一気に湧き出してくる。気持ちに突き動かされるようにして、今度はそっと、髪を梳いてみる。宥めるように、あやすように。
「お誕生日、おめでとう」
日付が変わるまで、あと十二分。深くなった寝息にそっと微笑んで、土屋は残された今年の誕生日を、できる限り子供を甘やかして過ごすことに決めた。
Fin.